東京五輪開会式:小林賢太郎さんの解任は、釈然としない
小林賢太郎さんのファンです。ファン歴は20年くらいですが、ラーメンズ、KKP、ポツネン、すべての作品はチケットを購入して交通費を使って劇場に観に行きます。数年前からは、映像クリエイターのつながりで石川県でも公演が行われるようになったことが、本当に喜ばしい事でした。(毎回のアンケートに、金沢公演を!と書き続けてきたので)DVDや戯曲集なども発売されているものは全巻揃え、手提げやノートなどのグッズも愛用しています。なので、ちょっと(いや、かなり)偏った意見であるとは思いますので、ご了承いただける方だけご覧ください。
クリエイターへのリスペクト
開会式に関わるいろんな意見が出ている。特に、著名人を含めた開会式演出への批判を口にする多くの人々の書き込みを見て、真っ先に思い出したのは、小林賢太郎演劇作品「ロールシャッハ」のワンシーン。
お時間のない方は、1:10:10あたりから見てほしい。3分くらいのシーンだ。できれば1:15:00あたりまで見てくれると、より伝わるかと。
何かにつけて、人のことを軽々しく批評し続けている串田くん。「つかみが甘い」とか「緊張と緩和がダメだったねぇ」など、人のスピーチにはいろいろと批評をしているが、いざ、自分がスピーチをすることになると、過去に自分が言った言葉がそのまま自分に返ってくるというシーンだ。「これだから素人は」「おまえ、嫌い」「まじ、消えてほしいわ」「あいつ、もう終わったな」などなど。
わたしは、このシーンを劇場で見て、なんとも苦々しい気持ちになった。小林賢太郎本人に言われている声のように聞こえたからだ。一つの作品を世に出すということは、自分の内面のドロドロしたものにも向き合って、批判を浴びることも覚悟のうえで公開する。それが、公演するということだ。自分のつくったものを自分だけで楽しむのなら、そんな心配はしなくてよい。
クリエイターというのは、自分の内面を外に出すという羞恥心を取り払ってはじめて、仕事が成立するのだ。
それが賞賛を浴びようが、批判を浴びようが、自分の生み出したものであることには違いない。今回の開会式の中には、随所に小林賢太郎の世界観が織り込まれていた。いままでは、彼の価値観を好む人たちがお金を払って、時間を使って劇場で楽しんでいた。オリンピックの開会式は、テレビで無料で見ることができるからこそ、クリエイターへのリスペクトが欠如してしまうのだろうな、、、と。
私自身は、小林賢太郎のみならず、その生み出したものへの好みの差はあれど、「何もないところから世界を生み出していく」というクリエイターの仕事はリスペクトに値するものだと思う。そのリスペクトなしに、あーだこーだ言うことは避けたい。そして、繰り返すが、私は、小林賢太郎が生み出す世界観が好みなのだ。
トライして、学び、変化してきた
小林賢太郎のエッセイ「僕が演劇やコントのために考えていること」の中で、テレビに出ない理由をいくつか挙げている。
①舞台の仕事をしているので他をやっている余裕がない
②知名度を必要最低限に抑えたい
③作品の希少性を守るためにテレビとの距離を守る
そんな彼が、もっとも多くの人がテレビで観るであろうオリンピックの仕事を引き受けたというのは、ちょっとした驚きだった。同時に、彼の作品の素晴らしさが世界に伝わるんだ!と、ファンとして誇らしくも思った。やはり「世界観を突き詰めたものだけが世界に通用するんだ」と確信した。当初は、閉会式のディレクターということだったが、その後、いつのまにか開会式も担当することになってさらに喜んでいた。(調べてみると、そのいきさつもイロイロあったみたい)
また、同書では「予備知識のいらない笑いであること」「人を傷つけない笑いであること」を信条としつつ、「ないものをつくる」ということは、一生かけて向き合う価値のあることだと言っている。
彼は表現者であるという生き方を選び、自らの世界観を表現し、人々にそれを提供してきた。現在のスタンスは、トライしてふりかえり、学んだからこそ確立されてきたものである。
本人が解任にあたって発表したコメントの通り、過去の自分が生み出したものに対して反省している。「ご指摘のとおり、1998年に発売された若手芸人を紹介するビデオソフトの中で、私が書いたコントのセリフに極めて不謹慎な表現が含まれていました。思うように人を笑わせられなくて、浅はかに人の気を引こうとしていたころだと思います。その後、自分でもよくないと思い、考えを改め、人を傷つけない笑いを目指すようになっていきました」
そもそもの問題になったネタは、「ユダヤ人大量虐殺ごっこ」という不謹慎なことを言って、それは不謹慎であるという共通認識があるからこそ、成立するネタであった。しかし、そういう形で人の気を引こうとするのはよくないと思い、考えを改めたという。ちなみに、彼が書いた作品で、世間的にみて反省が促されるであろう作品は、ホロコーストネタの他にも、「小麦粉か何かだ」とか「まーるかいてちょん」とか、いろいろある。関係者や当事者からみると、「不快だ」と言われても仕方のない内容だろう。
それでも、表現者であることは、これらのトライをし続けていくことである。そこから学び、小林賢太郎は「人を傷つけない笑い」を目指すようになっていったのである。それは、先ほどの「ロールシャッハ」で、続きのシーンを見てくれると、より伝わると思う。
人を裁くということ、正義とは何か?
そうやって変化した結果、それが認められていったにも関わらず、20年前の失敗が持ち出されてきて「彼がオリンピックに関わるのはいかがなものか」となったときに、多くの人が、彼を批判した。そこで、思い出されたのは聖書のワンシーンである。
姦通罪で捕らえられた女性をめぐって、イエスキリストと律法学者がやりとりする場面だ。今風に言えば、不倫騒動でやり玉にあがっている女性というイメージだろうか。旧約聖書の中では、姦通罪は石打ちの刑と決まっていた。イエスは「あなた方の中で、罪を犯したことのないものがまず石を投げなさい」と言っている。その場にいた人たちは、年長者から一人、二人と立ち去って、最後には誰もいなくなったというエピソードである。(ヨハネによる福音書8:3~11)
ここで聖書が語っているのは、「人間はそもそも罪深い」ということ。そして「裁き主は神以外にはいない」ということ。(御言葉として語られるのは、そこから罪の救いという話だが、それはほかの記事に委ねよう)神の目から見たなら、罪を犯したことのない人はいない。そのうえで、それぞれが意見を持っていて、それを自由に発言する権利を持っている。その権利を振りかざし、無自覚に人を攻撃していくことが、積み重なってイジメは生まれる。本人は正義を振りかざしているつもり。正しいことを発言しているつもり。けれども、それが積み重なることによって人を傷つける。
正義については、前出の「ロールシャッハ」の後半でも、語られている。
1:42:20くらいから1:44:00をご覧いただきたい。
壁に向かって大砲を撃つという任務が、実は開拓ではなくて、攻撃だと知った後。先ほど、自分の発した言葉が自分に返ってきて苦しんでいた串田くんがちゃんと自分の言葉でスピーチをした後に、壺井が「これで分かったろ。正義の逆は悪じゃない。正義の逆は、もう一方の正義だ。」と言い切る。
言うなれば、ホロコーストという出来事自体も、過去に正義の名のもとに起きたことであり、その反省から学び、変化したからこそ現在のドイツという国があるのではないか。国だけではない。私たち一人一人も、これが正しいと思ってやったことが、思いがけず人を傷つけてしまったことがないだろうか。私はある。人を裁くということは、それ自体が罪である。あまりにも、人を裁く発信を気軽にしている人の多いことか。
問題の本質は何か?
小林賢太郎が、今回のオリンピック開会式にどのような経緯で起用されたのかは知りませんが、彼を推薦した人は、彼の描く世界観なら、オリンピックにふさわしいものができるだとうと、打診したのではないだろうか。決してメインストリームではないが、私は小林賢太郎のタレントは、日本が誇るべきものだと信じている。しかし、彼を知らない組織委員会の人は「だれ、それ?」という反応だったのだろう。そこからの大抜擢だ。
抜擢した人の責任は問われることなく、本人を解任して終わり。わたしには、組織委員会のガバナンスに、ローカルの地域づくりが抱える課題が重なって見える。若い人に活躍の場を与えたかと思えば、意思決定者は責任を取ることなく、現場に責任をとらせて対外的な体裁を整える。だけど、アイディアや成果はいただき。これでは、才能のある人はアホらしくてこんなところではやっていられない、とそのまちを出ていく。そして、優秀な人ほど見切りをつけて、自分が活躍できる場を自分で作り出していくのだ。
つまり、今回の一連の騒動によって、組織委員会の持つ「もう一方の正義」は意欲のある若者たちにとっては、この国に見切りをつけられてもおかしくない不都合な真実を見せつけてしまった。しかも、世界に向かって。
問題の本質は、どこにあるのだろう。小林賢太郎の創作コンセプトなのか。人間は過去にやったことをどこまで遡って責任を問われるのか。国際問題になりかねない事案をわざわざ報告したことなのか。抜擢した人が最後まで責任を持ってやらせるという決断をしていないことなのか。不透明なガバナンスにあるのか。わが身を顧みずに人を裁くイジメの構造にあるのか。
地域社会や日本社会を覆う閉塞感の正体が、この不透明なガバナンスに起因するのなら、やるべきことは、彼らを打ち負かすことではなく、それを軽々と越えていく世界観を示すことなのだろう。小林賢太郎とは同年代で、同じ時代に生まれてリアルタイムで彼の舞台を見れたことを幸せに思っている。まったくレベルは違うものの、自分の道でがんばっていれば、いつか会えると信じてやってきた。少しずつ世界を今よりも良くしようと力を尽くしてきたことが、報われないのだろうか。釈然としない思いだけが残った。
釈然としない、、、と言えば「モーフィング」ですね。
これを見て、また一笑いして、がんばります。
みなさんも動画を見ていただければ、広告収入は赤十字に寄付されます。大人だなぁ、小林賢太郎。
大人と言えば・・・カジャラの最初の作品「大人たるもの」ですね~。
あぁ、いかん。つい、布教してしまう。こういうのが好きじゃない人もいると思うんです。でもね、何度も言いますけど、わたしは好きなんですよ、彼の世界観が。
日本の若者へ-それでもトライをやめないで
残念ながら、日本はこんな感じです。でも、そんな場所ばかりじゃないです。自分の力を十分に発揮できて、いろんな価値観に触れながら、世界を今よりちょっとだけ良くしていく仕事はたくさんあります。
失敗を恐れてトライしないのは、最大の失敗です。どうか、日本を見切らずに世界を視野にトライを続けてください。そして、自分が好きなものを好きだと言える社会を大切にしていきましょ。トライして、ふりかえって、学んで、成長していく。誰かが言うから・・・ではなく、あなたの軸をみつけていってください。
小林賢太郎さんへ-それでも表現者でありつづけて
もう、次の創作の旅へと移っているでしょうか。うるうの森で、ポツネンと。突然の引退で、パフォーマーとして劇場で会うことはできなくなりましたが、また、あなたの作品を楽しみにしています。
わたしも自分の世界観を形にする仕事を続けていれば、いつの日か会えると信じて、がんばります。
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