いかに多くの罪があっても(ローマの信徒への手紙5:15~21)

何度も繰り返しているが、これはパウロが今から2000年前に、ローマにいる信徒にまだ会っていない人たちに向かって書いた自己紹介の手紙である。ローマの信徒というのは、ユダヤ人のことであり、旧約聖書の律法に厳格に生きていた人たちである。幼い時から旧約聖書にしたしみ、暗記し、毎週の信仰生活を厳格に守り、律法を忠実に守り続けてきた人たちに、同じように歩んできたパウロが、キリストに出会い、キリスト者となったパウロが書いている。
 わたしたちは、旧約聖書の律法に忠実に生きる人生を送っているわけではない。これに基づいて文字を学んだわけでもなく、普通の日本人であるため、よくわからなくても恐れる必要はない。そういう文章であったとしても、ひっかかる場所があるはずである。それが、ローマ書を読んでいくときにとても大事なポイントとなる。たとえば13節。
「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ罪が罪と認められないわけです。」先週、この箇所を説明するために、どのようにして、ということで、スピード違反の話をした。50キロ制限、あなたが知らなくても、知っていたか知らなかったか、ではない。律法が与えられる前にも罪が世にあったというわけでない。走っていないときには、スピード違反は存在しない。その言葉はやはり引っかかってくる。
 律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためであった。律法が入り込んできた?律法が入り込んできたのは、罪.が増し加わるためであった。いったいどういうことを言っているのか、少々論理だてて、みていきたい。聖書の語る罪とは、この世の法律の罪とは、神様の目からみた、神様あの心と離れている現実のことをいう。それが、とても面白い言葉として表現されている。神様がそれを罪だと教えて下さったからこそ、それが罪と認められる。それが13節に書かれている内容である。神様がこの世界をつくり、この地上にわたしたちの命をお与えくださる。神様がこの世界をどんな世界であってほしいと思っていたのか。そこには、神の願いが当然にあった。この世の現実が違ったときに、神様が心の中でそれを罪と呼んでいたのである。しかし、それを神様が見ていただけでは罪とは呼ばれなかった。自覚するものが存在していない限り、そこに罪という言葉を置くことはしなかった。その罪を自覚する相手として、建てられた存在が、神によって、神の心を持つ人である。人格を持つ、神の似姿として作られた人間である。律法には2つある。わたしたちの心そのものである。自分で、これは罪深いことだよな、と思うこと。なんとなく思っていること。だれから聞くこともなく、一人の人として生きていったときに、それはまずい、いけないことではないかと思う中身。それが、私たちの心に記されている律法である。心が知っている律法と言ってもよい。もうひとつ律法にはある。わたしの心はここにある、と明確におっしゃった成文律法というものである。これをあなたは守らなければならないと与えられた。その大本が、十戒である。律法中の律法といわれるものである。

出エジプト記 20章2~17節

神がモーセを通して、イスラエルの民に伝えた中身である。そして、22節以下の契約の書について語っていく。一つ一つのことについて、十戒という大きな憲法のような基本法と言ってよい。それが法律になっていくのが、レビ記といわれるものである。細かく細かく指示されていく。きちんとした方向性、ものの見方考え方でそれを神様が与えられたかについて記されたのが申命記である。モーセが死ぬ前に、これはこういう考え方。モーセ五書と呼ばれるものは、まとめて律法の書と呼ばれることもある大切な成文法である。これを懇切丁寧に学び、それを実行しようとしたのが、イスラエルの人々である。もっと日常的に、安息日には働いてはならない、と言われたときに、働くとはなにかを示した。何歩以上歩いてはいけない、とか椅子をひきずって筋ができたら農耕にあたるとか、そういうことまで決められていく。だんだん細分化して、律法学者もわからなくなっていった。そこで聞いた人がいたのである。

マルコ12;28

あまりにもたくさんあったのである。細かな規定がたくさんあって、しかもそれが論争になっていた。たくさんの人たちがいろんなことをいい、いろんな書物を著すので、いろんなことを言っていた。そこで、律法学者がイエスに聞いたのである。「あらゆる掟の中で、どれが第一でしょうか」と。

マルコ12:29~31

十戒は10の言葉、10の戒めである。1から4までは神について、5から10までの戒めは、人と人との関係について語っている。第一の掟はこれである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」
神様の掟は、たくさんに見えるかもしれないが、「神を愛して、隣人を愛するものになれ」ということに尽きるといわれたのである。愛の律法であって、神を愛し、隣人を愛するものになりなさいということに尽きる。律法は愛の律法だと語ったのである。愛する者になってほしい。それが神の願いである。神の律法は、愛の律法なのだと語られたのである。
パウロは、この愛の律法について、パウロ自身の言葉でこのように語った。それが、愛の物差しと言われるものである。

コリント12:31後半~13:7

愛の賛歌と呼ばれる。わが子に愛ちゃんという名前をつけるキリスト者もいる。その愛ちゃんは、この箇所を嫌う。自分がそこから遠いことを自覚しやすいからである。自分の名前を愛の部分に入れて読むことが、愛の物差しである。自分が愛するものとして生きているのか。愛から遠い存在として生きているのか。それが物差しなのである。愛などという抽象的なら読めるが、自分の名前だと読めない。しかし、イエス様はそれをお求めになられた。第一の掟はこれである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」その愛は、どんな愛なのか。忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かずに愛せと。愛の律法の、愛とはどんな愛なのか。愛の賛歌のなかで、語り続けた。あなたは愛する者になることを願われている。この世界をおつくりになったときに、この世界が愛に満ちた世界になることを願われた。愛の物差しとは、愛とはどういうことか分かったという人がいる。愛するということが、どれほどの厳しさの中にあるのかを知ったという人もいる。パウロはこう語っている。

ローマ5;13

律法が与えられる前にも、律法がなければ罪は罪と認められない。愛するということはどういうことかを教わっていなければ、愛するとはどういうことかを自覚的にとらえることはできない。あなたは忍耐していますか。情け深く生きているか。妬まないで生きているか。神様は、あなたが愛するものであることを願うときに、忍耐深く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらずに生きていくものであることを願われている。パウロの手紙を読むまでは、愛するものとはどういうことかがわからなかったが、それがわかるようになった。神様に願いごとをすることは、自分の利益を求めることではないか、ということが愛とは何かをきくまでわからなかった。それが神様の願いであればあるほど、自覚的に知れば知るほど、律法が入り込んできたので「自分の罪が増し加わって」いくことを自覚する。神の願いから遠い存在であると知るものとなった。愛していてくださっているのは事実である。このように愛してくださっているのだから、神の心をわが心として生きよ、とおっしゃってくださった。愛の物差しの中で生きよ、と言われて、言われ続けるほどに、律法が私たちの心にどんと入り込んで、神の前に罪深い存在だと落ち込み、そして神の願いから遠いものは、死にに値するという裁きの言葉と聞いて愕然とするのである。6章には、驚くべき言葉がある。

ローマ6:23

罪なる存在であり、その結果支払わなければいけないのは、それは死そのものなのだ、と。青春時代にその理由をさぐっていた。礼拝の説教に耳を傾けていた。わかったことがある。神様は、私たちをなぜあなたは死ぬのかということを語り続けておられた。なぜ死ぬのが当たり前になっているのかを語り続けておられた。あなたは死ぬ。なぜかというと罪なる存在だからである。愛する者になっていないからである。気づき、教わり、聖書に書いてあることを知ったときに、愕然とした。だって、教会学校できくのは、あなたは愛されているということだけで、人が死ぬのは、あなたの罪ゆえである。とはあまり聞かなかった。大久保先生から、こういう解説を聞いた。
考えても御覧。死ぬのは当たり前になっているが、イエス様の十字架の後に生まれたから。よかったな、イエス様が2000年前についてくださって。もう、われわれの罪を問われることはない。罪は事実、存在しても、それを問うことはない。自覚しておき。自分がだめだな、愛する者になれないな、と。失敗したからといって、大丈夫、大丈夫。この軽さ!福音って、こんなに軽いんだ、と思った。高校生になってから、もう一度洗礼を、、、と言ったときに、恵みの先行だといわれた。それは厳しい言葉で語り続けられる。律法がなければ、罪は罪と認められない。神様の恵みは、もっと先行して、あなたがいかに愛から遠いかということを知ったら、決断して、愛する者になりなさい。愛するものとなろうというあなたを応援する。そのあなたの罪を問うことはしないから、愛してごらん。神の恵みとは、そういうものである。
(2018年3月11日 主日礼拝釜土牧師)


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