天からの神の怒り(ローマの信徒への手紙1:18~23)

 パウロはローマに行く前に手紙を書いた。イエスの十字架と復活についてすでに聞いていると思うが、わたしは福音を恥としない。その福音は、信じるものすべてに救いをもたらす神の力だ、と書いた。その解説、論述が今日からはじまる。

神が全能を発揮することなく、愛する神の子、イエスを見捨てられたのが十字架である。クリスマスの日に生まれ、多くの奇跡をなし、この方こそ救い主だとされた方が、見捨てられていく。これが、パウロがのべつたえている福音そのものである。墓に入れられたイエスが3日目に復活されたということが、パウロの福音そのものであった。神の子が十字架につけられる。これもありえない話であるにもかかわらず、その神に見捨てられたものが、神の力によって復活したとのべつたえているのである。
礼拝説教で話すので、これを話すことはできるが、ふつうの講演で言ったら、嘲笑の的である。神は全能である。神の子であるが、見捨てられた。そして見捨てられたイエスを復活させられた。だったら、最初から見捨てるなと言われてしまう。何を言っているか分からない、となってしまう。
パウロは、ユダヤの人たちがずっと信じてきた救いについて、こういう内容で結実したということについて、その福音を恥としないと言ったのである。これが、ローマの信徒への手紙で語られていく中心テーマである。
さきほど、賛美歌の267番を歌った。こんげつは、10月であり、2017年10月なので、宗教改革から500年のときである。1517年10月31日、ヴィッテンベルク教会の扉に95箇条の提題を。石川地区の青年たちの福音メールというのがあり、聖書の言葉をとおして、その日一日生きるときのメッセージを送るということが行われており、先週一週間はわたしが担当であった。ルターについて1週間書いた。結婚して、子供が生まれて、それでもカトリック教会との戦いが続いているときに、書いたのがこの賛美歌である。
4番の我が生命も我が宝ものところは、我が生命も我が妻子も、が元の歌詞である。よみの長というのは、教会のことなのである。この世の権力そのものとなっていた教会が、聖書の言葉にみみを傾ける自分に、そんなことを言ってもかねは必要だろうと言って迫り、火あぶりの刑をチラつかせて、告解のなかで語った。ていねいに回答しながら、決してほかの場所に立つことができない。「われ、ここに立つ」といって、神よ、わたしをお助けくださいといって、そこを後にした。
ルターは特別な学者ではない。人クラス58人中30番であった。そう優秀な学生ではない。普通の学生であった。しかしそのルターがなぜ宗教改革家になっていくのか。それは、聖書を中学生1年生レベルの読解力で読んでいった。聖書に書いてある。だったらそうなのではないか?という問いだったのである。
教会やこの社会を維持していこうとする人たちが必ず失敗するところであった。それに対して、本来、戻らなければならないところに戻るべきではないかと言っただけである。ルターも、パウロ自身も向いていた方向がある。福音や神の力とは、神の方を見ていたときにだけ出ていた言葉であったということである。

パウロが興味をもち、ルターが心を留めていたのは、不信心と不義である。神様がてんから怒りを表される対象なのだ、と語る。常に神様との関係に目を向けている。この世界をつくられたのは、神様である。わたしたちに命を与えられたのは神様である。神様はわたしたちのすべてに関わっておられる。わたしたちの心と現実はどうなのか、といつも語られる。この世界に生きているときに、人間であるわたしたち一人ひとりが関わっているそのかかわりかたは、神様が喜んでくださる関わり方なのであろうか。今の生き方は、神様が喜んでくださる生き方なのか。それを問うていくのである。わたしたち一人ひとりには、違った才能が与えられている。それを用いて生きている。仕事というかたちで生きるときもあれば、いろんな才能の活かし方がある。この才能を活かしていくのが、神様に喜ばれることであろうか。それが、日々の問いである。この生き方は正しいだろうかと常に問いかけながら生きていく。神様の心にみみを傾ける礼拝の時を大切にし、祈りの時、賛美のときを大切にしているのである。
ところが、わたしたちの周りには、願い事を叶えるために、神様に要求をするひとがいる。難行苦行をして、なぜ神は願いを聞かないのかと恫喝をするような仕方まである。これだけ辛い思いをしているのに、なぜ聞いてくれない。そんな神様っておかしいと思うという。神様が聞くのが当たり前だと思っているあなたがおかしい。教会にかかってくる電話は、ときどきおかしな電話がある。神様は人間の奴隷ではない。人間のいうことを聞かなければならない方ではない。わたしたちが、神様のみこころに従っているかどうかが大事なのである。この点が、発想が全く違う。聖書が語るのは、神の視線である。神様がこの地上をどう見ておられるか。この地上に対して裁きをすると、はっきりとおっしゃっている。そもそも、エデンの園の物語は、民の裁きの物語である。

ローマ1:18

人間関係のなかで、言ったもん勝ち、やったもん勝ちをお認めにならない。きちんと裁かれる方である。まじめに生きてきて、正義を貫こうとした人がそのまま損したままということはありえない。神について考えるときに、ローマの信徒への手紙の1:18~23は大前提になる。不義によって真理の働きをさまたげる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天からの怒りを表される。

ローマ1:19~23

でも、ちょっとまってほしい。少しページを戻ろう。パウロは、こんな厳しいことは言っていない。パウロがアテネの人たちにこう言っている。

使徒言行録17:22~29

もう一度27節。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことができるようにということなのです。

すべのものに命をお与えになるのが神様である。この世界をお作りになった方。人間のつくったものに住むはずがない。探してご覧なさい、わたしはここにいる。と言ってくださっている。この表現は、さきほどの、かなり攻撃的な言葉とは違う。それには理由がある。

使徒言行録1:30~31

この世を正しく裁く日をお決めになったからです。パウロは、神の寛容について語っている。しかし、主イエスキリストの十字架と復活が起こった今は、どこにいる人も悔い改めるようにと語っている。それは、神がこの世を正しく裁く日をお決めになったからである。神の御心にしたがって歩むものとそうでないものを正しく裁く、と。パウロはアテネのアレオパゴスで語っている。
神の裁き、神の怒り、それからいかにして、裁かれないものとなりうるのか。それが福音の本質である。なぜ怒りを発せられるのかということである。神を利用するものがたくさんいるからである。しかも、救いという言葉によって。自分の都合の話をして、願いを叶えてもらったら「救い」という。そういう程度の話をしてしまう。そうではない、とパウロは語っている。どんな人生なのか。この生命をどのようなものに用いているのか。どんな思いをもって語っているのか。そのすべてを見ておられる。そのときに、神のまえで罪なる存在にすぎないと知っていく。なるほど、自分は神に裁かれるしかない存在だと知る。そのときに、はじめて十字架の意味を知ることとなる。わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか、というイエスさまの言葉。私たちの現実を見れば、神に見捨てられてしまうような存在であるということが分かる。神が身代わりにとしてイエス・キリストをお立てになったことを信じると、救われる。信じるだけで良い。それが、信じるものすべてに救いをもたらす神の力になっていく。
神様に自分の生き方が正しい生き方なのか、間違っているのかを問い続けていく。まちがっているならば、わたしはあなたを裁くとおっしゃる。しかし、十字架によってもう裁かれない者となった。そのときに、パウロが聞いていることも、ルターが見ていることも、わたしたちが聞いていることもすべて同じ。神の目を氣にしながら生きていくということである。
(2017年10月8日主日礼拝 釜土達雄牧師)

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