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推敲(古典ノベライズ後編)

(昨日から続き)

「きゃ!」

 歩きスマホでごめんなさい。
 ボーっとしていて、どうやら十字路で道を折れてきた人にぶつかって押しちゃったみたい。
 瞬間「『ゆーくん』の推す店を見つけるのを邪魔する奴は、たたいてミンチにしてやんよ」と頭によぎったけれど、悪いのはぼーっとしていたあたし。
 さらにはそのぶつかった相手が、もごもご食パンを食べながら尻もちをついていたのを見たときに、あたしは運命を感じた。
 夢かと思ってつねる代わりに、自分の頬を両手で挟み込むようにバチンと叩いた。
 こういうのを僥倖っていうんだ!
 だって、そこにいたのは、まさしくその「ゆーくん」だったんだから。
 でもね、感動すると人っていうのは無駄口をたたいてしまうものらしかった。

「その食パン、おいしいですか?」

 あるよね、もっと、「根っからのファンです」みたいな声援。
 ところが、立ち上がった【カンウキ】こと「ゆーくん」が気付いたんだよ。

「あ。いっつもライブに来てくれる、【カトウ】さんですよね?」

 あたしは偏執的な追っかけなもんで、向こうはすぐにわかったみたい。
 いっつもライブに来ているファンだと知るや、どうしたことか、ゆーくんは急に暗い顔に影を見せた。
 なんとここでゆーくんは、「地下アイドルを肩たたきにあうかも」という爆弾発言を放ってきたの。
 しかも「熱狂的なファンであるあなたには伝えたい。ぼくはもう、アイドルをやめたいんだ」と、まさかの弱音を吐いたんだ。

「バカ!」

 警察沙汰の二の舞か、あーもうっ、感情の抑制が利かなかった。
 あたしは平手で、なんと憧れのゆーくんの頬をひっ叩いていたんだ。

「ゆーくんは、尊いの! 世界一のアイドルなの! あたしはあなたをずーっと追いかけて……」

 思いのたけを全部叫ぶと、最愛の人の横っ面を叩いた後悔とパニックで、ゆーくんを押しのけ脱兎の逃走。
 あたしはもときた大江戸線改札へと、気づけば走り逃げていた。

    *

 後日、彼が事務所を辞めることはなかった。
 あの日の彼のSNSでは「叱咤激励に目が覚めました。感謝です」とあったから、横っ面を叩いたことはギリギリ怒っていないんだと思いたい。
 もしもあたしがキッカケで、立ち直ったんならなお嬉しい。
 あたしはいつもの小さなちょっとみすぼらしいライブ会場で、舞台上でキラキラ輝くゆーくんを見上げてそんなことを考えていた。
 するとお気に入りの曲のイントロが、大音量で聞こえてきた。
 あたしはきっと、これからも推しの歌に合わせて手を叩き続けるに違いない。

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