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無価値感の向こう側 本来の自分を取り戻す時

人は、一人ひとり違います。

安易に人にレッテルを貼って分類することは好ましくないと思ってます。

人の個性は単純に括れるようなものでは無いと言えます。

ただ、

自分には価値が有るという感じ方が基本姿勢の人と、

自分には価値が無いと思い込んでいる人の間には、

お互いにわかり得ない「感じ方」の隔たりが有る様に思います。

ここでは、

自分には価値が有るという感じ方をする人を「有価値を感じる人」

自分には価値が無いと感じてしまう人を
「無価値を感じる人」

と表現させて頂きます。

NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾムです。

有価値を感じる人

有価値を感じる人は一言で言うなら、育つ過程で、自分の感情を素直に表現することが許された人です。

親の顔色を覗う必要が無い環境で育った人です。

はしゃぎたければ、はしゃぎます。
勿論、はしゃいだ結果、ガラスのコップを割ってしまったら、怒られます。

しかし、怒られるのは、行動結果の部分です。
「コップ割っちゃダメでしょ!」です。

「なんではしゃぐの!」ではありません。
はしゃぎたい感情をとがめられる環境ではない、と言うことです。

感情は本人だけのものであり、たとえ周りの大人達から見て、子供じみた感情であっても、湧き出す感情をせき止める権利は誰も持っていません。

この親御さんは、子供の感情を尊重して、子供の感情の境界線を超えることをしていません。

おそらく、この親御さんは、ご自身が感情を尊重される環境で育ち、意識しないでも子供の感情を尊重する構えが出来ているものと思われます。

子供は自分の感情を尊重される毎に、「自分には価値が有る」という感じ方が育ちます。

自身が感情を尊重されて育った親御さんは子供の感情を自然と尊重します。

取り立てて、特別なことをしなくても、感情を尊重する育て方、育ち方、は親から子供へ受け継がれることになります。

感情を尊重する世界に居る人は、有価値を感じる人です。

有価値を感じる人は、無価値を感じる人の感覚や育った環境を理解することは難しいかも知れません。

無価値を感じる人

一方、無価値を感じる人は、親の感情を優先することを強要されて育った人です。

その環境で育つと子供は、自分の感情は放ったらかしにして、親が望む感情表現をすることに全集中することとなります。

はしゃぎたい時、親が大人しくすることを望んでいることを察すると、大人しくします。

自分の感情を諦めて、親の望む子になって見せます。

先程の例で言うと、はしゃいでコップを割ってしまったら、

「なんではしゃぐの!」
「どうしてアナタはそうなの!」
「ダメな子!」

行動結果よりも、存在と感情を否定されます。

行動結果は感情の「境界線」の外です。
感情は「境界線」の内側です。

感情を否定することは、「境界線」を侵す行為なのです。

子供の感情はないがしろにされます。

感情の境界線は無いものにされます。

そうすると、この子は、はしゃぎたくなる度に、自分を否定する様になってしまいます。

「はしゃぎたくなる自分は悪い子だ。」
「はしゃぎたくなる自分なんか価値が無い。」
と、自分の存在と感情を否定する様になってしまいます。

親から感情を否定され、更に自分が自分の感情を否定して、心は雪だるま式に傷の上に傷をこさえて、傷だらけになります。

無価値を感じる子供になります。

この親御さんは、感情を尊重される環境をおそらく知らないままに育ったものと思われます。

その世界しか知らないので、子供の存在や感情を否定し続けていることには、気づきません。

感情の境界線を侵している認識はありません。

当たり前の様に、子供を 無価値を感じる人  に育て上げます。

無価値を感じる人 は、やはりその環境しか経験しないので、有価値を感じる人 のことも、その育った環境も理解出来ないでしょう。

有価値と無価値の境界線

子育てに関する情報は世にあふれています。
検索すれば沢山見つかります。

「子供にしてはならない10のこと」
「NGな躾け5選」

などの文言が踊ります。

しかし、突き詰めれば、その根は
子供の感情を ないがしろ にするか、尊重するか、の一点に集約されると考えます。

もしも、子供の感情を尊重出来たなら、
前出の「10のこと」も「5選」も、要らないと思います。

非常にセンシティブな事柄ではありますが、

問題は、「子供にこんなことをしたから…」に有るのではなく、子供の感情や存在を否定しても、それを感じ取ることが出来ない親御さんに有ることが少なく無いのです。

前述しました様に、無価値を感じる人の家系は、無価値を感じる人をつくり出す連鎖が起こっている事がほとんどです。

親から子、子から孫へと連鎖しています。

信じて疑わなかった親子の在り方自体が、子供の感情や存在を否定する在り方だった場合、気づくことが難しいのです。

本当の人生のはじまり

感情や存在を否定され続けた子供は、生きづらさを抱える人になります。

その、生きづらい人は、生涯生きづらさを抱えて生きるのでしょうか。

いえ、決してそうではありません。

自分の苦しさは、幼少期に感情や存在を否定され続けた為に、無価値を感じる生きづらい人に育ったからだ、と気づいて、

その幼少期の心の傷に、正面から向き合うことで、無価値感を取り払い、生きづらさを手放すことは、出来るのです。

確かに、生きづらさを抱えて人生を歩むことも、

気づいて心の傷と向き合うことも、

とても、辛い経験ですが、その向こう側には、

これまでとは比較にならない軽やかな心を持って歩く人生が開けます。

特別なあなたに変貌を遂げた訳ではありません。

これまで囚われていた、いわれの無い思い込みを取り払い、背負っていた重い荷物を降ろしただけです。

軽やかなのも、伸びやかなのも、本来のあなたの心の在り方です。

そして、

有価値を感じる人は無価値を感じる人がわからず、

無価値を感じる人は有価値を感じる人のことが解りませんが、

生きづらさを手放した人は、過去の無価値を感じていた自分と

今の有価値を感じる自分を対比して見ることが出来るので、どちらの感じ方も解ります。

もっというなら、どちらの感じ方も選ぶことが出来ます。

生きづらさを手放すために、自己洞察を重ね、手にした自己理解。

過去の自分の生きづらさ。

今の自分の軽やかな心。

これらを自分の胸に収めたとき、
かつて無価値を感じ、生きづらさを抱えた人は、

間違いなく、

心の平穏と

深い人間性を手にします。

それこそが、

軽やかで伸びやかな

本来のあなたの心で歩む

人生の幕開けです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。

NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾム





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