心地よい「今」を創る為、フォーカスは「出来事」に向ける
軽やかな心持ちで生きるには、意識のフォーカスは、出来事、に向ける、と決める事が有効だと思うのです。
たとえば、クルマを運転していて、無理矢理、ウインカーも出さずに前に割り込むクルマに遭遇し、
なんとかブレーキを踏んで接触は免れたとします。
出来事にフォーカスすれば、
「危なかった、ぶつからずに済んだ。」と、無事だった事にホッと胸を撫で下ろします。
しかし意識のフォーカスが、割り込んだクルマの運転者に向いたなら、
「なんて運転をしてるんだ!」
と怒ります。
「下っ手くそだな!」
批難します。
「わざとやったのか!?」
疑います。
「やり返さないと気が済まない!」
恨みます。
意識のフォーカスが、出来事、に向けば、ヒヤッとするのは仕方が無いにしろ、その後は、危険を回避した事に安堵します。
ホッと胸を撫で下ろして、その出来事はおしまいです。
危険を回避した経験だけが、自分の上に積み上がります。
しかし、フォーカスが割り込んだクルマの運転者に向いたなら、
怒り、批難し、疑い、恨みます。
ネガティブ感情のオンパレードです。
とても冷静になんて居られません。
心は憎き無謀運転ドライバーに占拠されます。
意識のフォーカスを向けられた他者は、
その瞬間に意識を向けた人の心の中で、
その存在感を急激に増します。
意識のフォーカスが、強引に割り込まれたがぶつからなかった、という出来事に向いている限り、
無謀運転ドライバーは、その一瞬のドラマの単なる出演者に過ぎません。
フォーカスが出来事に向けられている限り、出来事は自分という、人生の主役、を取り巻く事柄であり、
他者は、人生というドラマの、いち出演者です。
先に触れた様に、フォーカスが他者に向くと、
他のクルマが自分の運転するクルマの前に割り込んだ、というだけの事が、
怒り、批難し、疑い、恨む、というネガティブ感情を続々と産み出します。
私達が触れる事が出来るのは、「今」だけ、です。
過去がどんなに色鮮やかに蘇っても、未来の希望や不安がどれ程リアリティを持っていたとしても、
過去も未来も、私達の思考が創り出す、想念、です。
決して触れる事は叶いません。
誰もが、心地よい人生を望む筈です。
重々しい気持ちに押し潰される事を望む人など居ないと思うのです。
ならば、心地よい人生を創るには、触れる事が出来る「今」を心地よくする以外に無いのです。
「今」の連なりが人生ならば、心地よい「今」が連なって、心地よい人生を創る、と言えます。
今の一瞬だけを切り取って、今が良ければそれで良い、という享楽的、刹那的な快楽主義とは違います。
連なり、だからです。
自分が主役の、自分の人生という舞台だからこそ、自分を要にして連なります。
他者にフォーカスして、心を他者に明け渡したなら、
心地よい今は、ネガティブ感情に席巻されて創り出せず、
主役の筈の自分は、心の中で存在感を増した他者に主役の座を奪われ、人生は連なりを得ず、ぶつ切りになってしまいます。
人生には色々あります。
色々あるからこそ、
いっそ最初に、
意識のフォーカスは出来事に向ける、
そう決める事で、
随分、肩の力は抜けるのです。
心地よい「今」が連なって、
心地よい人生が拓けます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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