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心が未成熟な親は、思い通りになる人形が欲しい

心理的に未成熟で、子供を所有物と認識している親は、

子供が、自分として、自分の人生を生きる事が、どうしても許せません。

その親には、自分が子供を、所有、している自覚はありません。

むしろ、自分は子供思いの愛情深い親だ、と思い込んでいます。

自分の事はさて置いて子供のことにかかりっきりの人生だった、と言います。
自分は子供に全てを捧げて生きて来たと主張します。

しかしその実、その親は子供に絡みついている状態を、自分の事はさて置いて…、と思い込んでいますし、

全てを捧げて…、と言いながら、根こそぎ奪い取っているのです。


その親は、子供が自分として生きよう、と欲する姿が、親への裏切りに見えるのです。

子供が、湧き上がる自然な感情を表すことを嫌います。

子供が自発性を持つことが許せません。


心理的に成熟した親であれば、子供が感情豊かであることを喜ばしく感じますし、

子供の自発性に、成長を感じ、頼もしくも、いじらしくも思います。

それは、子供を一人の人間として、尊重、していればこそ辿り着く境地です。

子供を所有物だと認識する親は、全てが正反対なのです。

その親は、自身が抱える、無価値な思い込み、から目を逸らすことが生きる目的になってしまっています。

そこから目を逸らすことが最優先事項なのですから、

他者と関わり合う時の基準が、
自身が抱える、無価値な思い込み、を刺激して、無価値感、を感じさせる相手なのか、それとも、

無価値な思い込み、から目を逸らす為の道具になってくれる相手なのか、ということになってしまいます。

それを基準にしている限り、健康的な人間関係は構築出来ません。
何故ならそこに、尊重、は無いからです。

尊重、というと何か特別な事の様に思われるかも知れませんが、

平たく言うと、相手を一人の人間として認める、という極々当たり前の事です。

自分が個として在り、相手が個として在る、という人間関係の根本原理の部分です。

しかし、心理的に未成熟だと、相手を尊重する事が出来ません。

つまり、人間関係を構築する基礎部分が出来上がっていないので、

そこには、相手を尊重するという概念が欠けており、
自分も他者も、親も子も、一色たんな人間関係、親子関係、になってしまいます。

それは言ってみれば、幼い子供が人形で一人遊びに興じる様な世界です。

極めて独りよがりな世界であり、もしも人形が個を主張し、意思を持ったなら、成立しない世界、なのです。


心理的に未成熟な親は、健康的な人間関係を構築する術を持ちません。

その状態で、親になり、眼の前に自分の事を、ひたすらに信じて慕う存在が現れたら、

先に触れた、無価値な思い込みから目を逸らす道具、としてはこれ以上無い存在、と認識してしまいます。

道具としてこの上無い、のですから、個を主張してはならない、のです。
意思を持つことは、もってのほか、です。

その親が欲しいのは、尊重し合う関係性では無く、
自分の意思が全て通る、人形遊びの様な親子関係です。

その心理的に未成熟な親が欲しいのは、すくすくと成長する健康的な我が子では無く、
個としては決して歩まず、意思を持たない、人形、なのです。

だから、子供が自分として生きることは、親への裏切り、です。

子供が個として立つことは、忌まわしいこと、なのです。


そんな心理的に未成熟な親の心が、人形遊びに興じる幼児の頃のまま、
成長の歩みを停めてしまったのには、勿論、理由があります。

その親もまた、かつて心理的に未成熟な親から、意思を持たぬ人形として扱われ続けた過去があります。

つまり、世代間で連鎖しているのです。


もしも今、自らの生きづらさに気がついて、
その生きづらさを手放したい、と願っているならば、

自分を、意思持たぬ人形、として扱った親に強い怒りを感じることは避けては通れないですし、
また避けてはならない、と思っています。

しかし、意思を持つことをあの手この手で妨害した親を、

親も、かつて道具として利用され、意思を持つことを禁じられたのだから、可哀想な人、なんです。
だから、全てを分かった上で、私は親を許します。

と言う人が少なくありません。


しかし、そう言う人は、自分を一番大切な存在、と感じていない場合がほとんどです。

自分として生きること、を取り上げた親に、まだ譲っているのです。

本来、人は自分以上に他者を愛することは難しいのだ、と思っていますし、

そうでなければ、自分の人生を歩むことも、健康的な人間関係を築くことも出来ない、と思います。

親子関係という括りを解いても、人が人と繋がること、人が自分の人生を歩むことには、尊重する、ということが基礎であり、

尊重の芯は、自分を尊ぶ、自尊、なのだと思っています。


生きづらさを手放して、自分の人生を歩む中で、

親に対する強い怒りは和らぐでしょうし、

親との関係性が良好な方向に向かうことも、

親を許す日が来ることもあるかも知れませんが、

それは、自分と向き合い、

自分を自分で、尊重、する事が出来た先に、訪れるかも知れない変化です。


今、生きづらい人は、

かつて大切な自分を、道具、として、人形、として扱った親に対する、

未消化の正当な怒りを感じ尽くし、

消化する事が必要です。

生きづらさを手放すことも、

気づきを得ることも、

親に譲ることを止めて、

自分を、尊重、した先に、

訪れるのだ、と思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム


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