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マインドで感じるチカラが望む人生を引き寄せる

人と接すると言う事は、大いに誤解し、大いに誤解される、と言う事です。

例えば、グループラインで何の気無しに発言したことが、誤解が誤解を呼び、仲良しだったそのグループがギクシャクし始めることなどはよく有るのではないでしょうか。

また、グループの中のAさん、Bさんには、好意的に受け取られても、Cさんはその発言に傷ついてしまうこともあります。

そういった事は、SNS時代の今に限った事では無く、スマホを介して会話がなされるか、対面しての会話であるか、の違いは有れど、いつの時代も、人が複数集まれば、誤解は必ず生じるのです。

ただ、対面しての会話は流れ去って行くのに対して、SNSは残ります。

誤解であれ、そうで無い場合であれ、傷ついた側が、その発言を何度も読み返し、嫌な感情を反すうし、増幅させる事も有り得ます。

対面にしろ、SNSにしろ、「誤解」する、「誤解」される、割合は思うよりも多い様な気がします。

誤解までは行かず、「発言の意図と違った伝わり方」をする事まで含めると、発言者がいったいどれ程の意思を正確に伝える事が出来ているのか、甚だ怪しく思えて来ます。

そもそも、言語によるコミュニケーションだけでは、限界は有ります。

私はコミュニケーションを取る際に、気をつけるべき点として、

他者の理解に対して過度な期待をしない事と、
行間や余白を読む力を磨く事は、

大切なのではないか、と思うのです。

他者の理解に対して過度な期待を持たない、などと言うと、冷たい印象を持つ方もいらっしゃるのかも知れませんが、

話したのだから伝わるに違いない、と思っていると、どれ程傷つくかわかりません。

「話す」という事と、相手が「理解する」事は、隣り合ってはいますが、「別の事柄」です。

そして、私が発言者だとすると、「話す」までが、私の力が及ぶ範疇で、その後の「理解する」段階は聞き手に100%委ねざるを得ない訳です。

勿論、互いに「わかり易く話そう」「理解しよう」という姿勢は必要ですが、

過度な期待を掛ける程に、傷つく頻度は高まります。

もともと、言語によるコミュニケーションは完璧では無いのですから、話した事が、ほぼほぼ全て伝わると思った時点で、多かれ少なかれ傷つく事は避けられません。

それを、補填するのが、「行間や余白を読む」力です。

これが、対面してのコミュニケーションの場合は、相手の「間や表情を読む」という事になると思います。

言葉を理解する事にプラスして、雰囲気を読むことで、聞き手は理解力が高まり、話し手は「このアプローチが有効でなければ、こちらの言い回しではどうか?」と単調な説明に留まらず、

それこそ「対話」の域に達するのです。

説明が対話の域に届くと、意思疎通の齟齬は半減すると思います。

言い方を変えると、これは「想像力」を高めて、対話の場合は相手と、文章の場合は文章や行間と相対しましょう、と言う事です。

相対した相手の間や表情を読む、
文章の行間や余白を読む、
と言う事は、
想像力を高め、「感じる」力を強めると言う事だと思います。

その、「感じる」力を強める先には、思考のテクニックではなく、マインドで感じる感覚に繋がると思っています。

昨今、SNSも短文中心、動画の世界もショート動画流行りです。

端的に内容を伝えるという意味に於いても、それが、良くないとは思わないのですが、

個人的には、この物質世界に生きる限り、形の無い「心」を考えるには、「言葉」に落とし込む必要がどうしても有り、

しかし、言葉の表現には限界も有り、

その限界を補うには、短文やショート動画だけでは無く、

長い文章の行間や余白を読み込む力も必要で、

その力は対話に於いての相手の間や表情から察する力に繋がり、

更には、想像力やマインドで感じる感覚に連らなっている様に思います。


昨今、優秀と言われる人の中に、「比喩表現」がどうにも解らない人が少なく無いと聞きますし、実際、人との交わりの中で、直接的な表現でないと、理解してもらえない人と遭遇する事も有ります。

これは勿論、優秀と言われる人に少なく無い傾向ならば、知的能力の高低や地頭の良し悪しとは、あまり関係が無く、

その人のマインドの柔軟さに関わる様な気がします。

そして、このマインドの柔軟さこそが、その人が、望む人生を生きる鍵の様な気がしています。

この世を生きる限り、人は人と関わります。

ならば、その避けては通れない人との関わりを、より良く、楽しく感じることは、

望む人生を手にすることと等しいとさえ言えないでしょうか。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム




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