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怒りの後ろに何があるのか

怒り、の感情は、とても激しい感情です。

人が、取り返しのつかない過ちを犯す時、怒りに呑み込まれ、怒りに衝き動かされている場合が多い様に思います。

認知行動療法の一つであるアンガーマネジメントは、激しい感情である、怒り、に適切に対処し、コントロールする目的がありますが、

あらゆる分野でその有効性が広く知られる様になったのは、それだけ、怒り、のコントロールが難しい事の裏返しと言えるでしょう。

怒りには、大きく分けて二つの種類があります。

正当でストレートな怒りと、
何らかの感情を隠す為に現れる、二次的な怒りです。

正当な怒りは、肉体的、心理的に危害を加えられた時、もしくは脅威に晒された時に発生する怒りです。

危険を回避し、自分の心身を防衛する為に生じます。

二次的な怒りは、先ず認めたくない感情が有り、その感情を覆い隠す為に発生します。


たとえば、通りすがりの面識も無い人物に、因縁をつけられ、金品を要求されたら、怒りが湧きます。

その理不尽な要求に、腹が立ちます。

怒りを相手にぶつけるか、静かに諭すか、無視するのかは、感情の処理の問題ですが、

先ず怒りが湧き上がるのは、自然な事です。

その怒りは、正当な怒り、です。


たとえば、相手が「あ、それ知らないの?」と何の気なしに言った時、激しい怒りを感じるのは、二次的な怒り、でしょう。

馬鹿にされた、下に見られた、といった解釈によって、怒りが湧き出したのだと思われますが、

この場合、怒りの後ろに、認めたく無い感情が有ります。

おそらく、自分には価値が無いという思い、
無価値感、だと思われます。

世の中に知らない事など掃いて捨てる程有る訳ですから、「うん、知らないから教えて。」と言えば何の問題も無いのですが、

その人にとっては、知らない事を指摘されたのが、自分が認めたく無い、無価値感、を刺激して、

刺激されたのは、無価値感、なのですが、それを認めたく無い為に、激しい怒りを発生させて、覆い隠します。

怒りを覚えた本人は、相手を「マウントを取る失礼な奴」だと思う事で、自分の、無価値感、と対峙しないで済むのです。

マウントを取った、取られた、という話しはちょくちょく耳にします。

実際に自分の優位性を誇示していないと、自分を保てない人は沢山居ますから、

全部がそう、とは思わないのですが、二次的な怒りを生み出した事によって、マウントを取られた、と解釈している場合は少なく無いだろう、と思っています。 

いつも不機嫌な人、って居ます。
口を開けば、愚痴、不平、不満の人は居ます。

世の中を創り出しているのは、自分自身、だと思っているのですが、

怒り、について考えると、つくづくそうだな、と確信します。

二次的な怒りを日常的に使い、常にその後ろに有る感情を、無いもの、として扱っているから、

いつも不機嫌で、口を開けば、ネガティブな発言になります。

二次的な怒りを使って、無価値感、から目を逸らすという方法には、極めて高い常習性、依存性が有ります。

何故ならば、手軽だから、です。

本来、自分の心の中の事は、自分の心の中でしか解決する事は出来ません。

自分の心の中で解決しようとすれば、認めたく無い感情と対峙する事になり、それには、痛み、が伴います。

しかし、心の中の事を、外の誰かを利用する事で目を逸らす時には、自分が痛む事は無いのです。

言わば、心の中の問題を、外に居る誰かに丸投げしている状態が、いつも不機嫌な状態であり、愚痴、不平、不満です。

いつも不機嫌で、口を開けば愚痴、不平、不満の人が、

親になったなら、これまで関わる人から無作為に二次的な怒りをぶつける対象を抽出していたものが、

より確実に、安全に、ぶつける事が出来る対象を見つけてしまいます。

それは、我が子、です。

圧倒的に強い立場にあるその親は、徹底的に弱い立場にある子供に、二次的な怒りをぶつけます。

子供に怒りをぶつける限り、怒りの後ろにある無価値感には触らなくて済むのです。

怒りをぶつける、と言っても、解り易く体罰を加えたり、罵倒したり、という事ばかりではありません。

親自身の心の揺らぎを子供に背負わせます。

親自身の認めたく無い無価値感を子供になすりつけます。

無関心、過干渉、過保護といった心理的虐待を加えます。

子供は、親から背負わされた荷物の重さに耐えながら生きる事になります。


二次的な怒りに衝き動かされる人は、事の重大さに気がつきません。

自分の心の中の事を、他人を使って、心の外で解決しようとするから、気がつきません。

そうする限り、認めたく無い感情からは、目を逸らす事が出来ても、

根本の解決にはならず、心が晴れる事は望めず、

心の外の他者に怒りをぶつけるという事は、自分には非が無く、悪いのは他者、という世界を創り出す訳ですから、

知人も友人も、配偶者も我が子も、近所の人も街行く人も、誰も彼もが腹立たしい、悪者ばかりの世界を生きる事になります。

軽やかに生きて行きたい、と望むなら、

表に現れている感情の後ろに、

認めたく無い感情が潜んでいないか、

見定める事は大切です。

そういった見え辛いものを紐解く事が、

自分と向き合う、という事だと思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム







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