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軽やかに生きる人は、自分を責めない

生きづらい人、に知って頂きたい事があります。

それは、軽やかに人生を歩んでいる人は、

自分に厳しい生きづらい人には、想像出来ないぐらいに、

自分を決して責めない、ということです。

なんだ、そんなことか…とお思いでしょうか?

しかし、たったそれだけの事が、

軽やかな心持ちと、重々しい気持ちを分けるのです。

健やかな人と、生きづらい人を分けるのは、

自分を責めるか、自分を励ますか、とも言えると思っています。


失敗してしまった時、健やかな人は、

自分のミスを認めることが出来ます。

認める事が出来るのは、失敗した、という出来事と、自分の価値、とは、無関係であり、

失敗しても、自分には価値が有る、と思えているから、です。

失敗しても、揺らぐ事なく価値が有る自分、だからこそ、

その健やかな人は、「今回は失敗したけど、次は上手くやろう」と感じ、

自分を励まします。

失敗を認める事が出来、自分を励ます事が出来た時、

失敗はその人の上に、経験、として積み上がります。


失敗した時、生きづらい人は、自分を責めます。

生きづらい人は、自分には価値が無い、という思い込みに執らわれています。

基本が、自分は無価値、という感覚なので、失敗は単なる出来事には留まらず、たちまちのうちに、自分の価値を脅かします。

失敗が無価値の裏付けになってしまいます。

だから、失敗した自分を責めます。

責めに責めて、やっぱり自分は無価値だ、という思いを強化するか、

或いは、失敗した事実を曲げて、認めないか、です。

事実を曲げる時には、言い逃れる、しらばっくれる、他人のせいにする、といった事になりますが、

失敗した時点で、自分は無価値だ、という感じ方は強化されていて、本当は事実を曲げても、後ろめたさが追加されるだけで、無価値な思い込みは無くなりません。


生きづらさを手放そうとするならば、先ず知っていて欲しいのが、

これまで、自分に厳しすぎるぐらい厳しく接して来た、という事です。

周りの他人から、甘えている、などと揶揄されたことがあったとしても、

本当は、親から押し付けられた高い基準に届かなければ、自分には価値が無い、という思いに追いかけ回され、

少しも休まる事も、満ち足りる事も無く、至らない自分を責め苛みながら、ひたすらに走り続けたのです。

自覚は無くとも、そうやって走り続けた、生きづらい人は、くたくたに疲れています。

これまで、自分を責めに責めて生きた人が、突然、自分を大切に思い、自分を励ます事は出来ないし、そのやり方すら分からない、と思います。

だから先ずは、自分がどれ程、自分に辛く当たって、どれ程、自分を嫌っていたのか、知る事が大切だと思うのです。


生きづらさを手放そうとして、もっと優しくなろう、もっと強くなろう、と変化することを目指す場合が実に多いのですが、

変化を求める、という事は、今の自分では良くない、と決めつける事に他なりません。

またしても、より一層、自分を責めて、否定して、拒絶しているのです。


今の自分を受け容れて、自分が自分を励ますことが出来る様になった時、

変化、が自然と、訪れます。


生きづらさを手放して、望む人生を軽やかな心持ちで歩みたい、と願う時、

生きづらさを背負わざるを得なかった理由を腑に落とします。

今のありのままの自分を受け容れます。

全てが腑に落ちて、

全てを受け容れたなら、

自分を励ませる自分になっています。

変化している自分に気がつきます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム





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