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中庸(ちゅうよう)な心の構え

極端な行き方をせず穏当なこと。
片寄らず中正なこと。

中庸の意味です。

私自身は、ちょっとした事で舞い上がり、調子に乗って、つまづいては打ち拉がれる、そんな極端な生き方をして来ました。

中庸の正反対の在り方です。

調子に乗る時は、他人から認められた時です。
打ち拉がれる時は、他人から思う様な評価が得られなかった時です。

そんな極端から極端に振れる、生き方、感じ方、考え方になってしまうのは、

今振り返ると、心に確かな【自分】という意識が無かったからだと思っています。

【自分】が無いと、他者の自分への評価に左右されます。

心に【自分】が有れば、物事に対する自分なりの尺度が有ります。

他者の見方、考え方、感じ方は、他者のものであり、自分は自分の尺度で物事を測りますから、他人にいちいち必要以上に影響される事が有りません。

心の中に【自分】が有る人が、人生を歩むうちに様々な経験を重ねると、自ずと中庸な在り方に近づく様に感じています。


心の中に【自分】が育たない原因は、ほとんどの場合は、幼い頃の親との関係性に有る、と言ってもいいと考えます。

自分の存在や感情を否定され続けると、自分は、許されない存在なのだと思い込みます。

泣きたいのに、親が望めば笑わなければならない環境に育つと、自分の感情は悪いものだと思い込みます。

自分に対して安心感を、これっぽっちも感じる事なく成長します。

自分に対する安心感こそが、心の中の【自分】を生み出す母、と言えます。

自分に対する安心感を持つ事が出来ず、
心の中に【自分】を育む事が出来なかった人は、

自分に湧き出す感情を、悪いもの、とどうしても感じてしまう人でもあります。

自分の感情を蔑ろにするクセが染み付いています。
自分の感情は悪いもの、と思っているからです。

自分の感情を見て見ぬフリをするのです。
泣きたくても泣いたら責められたからです。
もう責められたく無いのです。

だから、自分の感情を感じ取る力が極端に弱くなっています。

感じ取る力が弱いので、極めて強い感情しかリアリティを持ちません。

たとえば、「スゴい!」と他人から言われて嬉しい、
自分の中に尺度が無い人は、他者の評価が尺度です。
他者からの称賛は、とても嬉しいのです。

逆に、「全然ダメだな」とでも言われたら、自分はダメだ、と打ち拉がれるか、言った相手に激しい怒りを覚えるか、です。

自分の中に尺度が無いと、他者の評価に振り回されます。


自分の感情を感じ取る力が弱い人には、喜怒哀楽の「喜」と「怒」しか無い様に思います。

褒められて「嬉しい」と、
否定されて「怒る」の二つです。

否定されて、打ち拉がれるのは、一見「哀しみ」の様に見えて、傍らに否定した相手に対する「怒り」が必ずある様に思います。

だから、感情を感じ取る力が弱いと、強い感情である「喜」と「怒」の両極端に振れるのだと思います。

ニュートラルが無く、トップギアかローギアか、の心の構えになってしまいます。

そして、そのギア選択は、自分の中に尺度は無く、他者の評価に委ねられるので、極めて不安定な状態です。

他者の評価に振り回される人は、
他者に心を明け渡した人、とも言えます。


過去の自分を思い返すと、
自惚れと、自己卑下の両極に振れ、
傍らには怒りが必ず居て、

他人に振り回され、
鈍麻した感情がもたらす閉塞感に沈み、

自分にも、自分の人生にも、興味を感じないまま、

きりもみ状態で、訳も分からず生きて来た様に思います。


極端から極端に振れる特性を、推進力に換えて、社会的に成功を収める人も居ます。

時代の寵児と言われる人や、時代の変革期に現れるトリックスターにも、そんな傾向の強い人が少なく無い、と感じます。

どんな生き方にも、善悪、正誤、優劣は無い、と考えます。

ただ、心豊かに、軽やかな心持ちで生きる事を望むならば、

心に【自分】を育む事は、大切な様に思います。

勿論、中庸である事は目指すものでは無く、

心に安心感があり、自分が育まれたなら、

自分も、自分の人生も、尊いと感じ、


そう感じた時、自ずと中庸な構えになる様な気がしています。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム


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