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言葉の引力を上手に使う

生きづらさを手放す、ことと、
自分を育てなおす、ということは、
同じこと、だと捉えて構わない、と思っています。

生きづらい人が長く苦しんだ果てに、自分の生きづらさを自覚し、
その生きづらさを手放す決意を固める事は、並大抵の事ではありません。

何故なら、生きづらい人は、昨日今日突然に生きづらさを背負ったのでは無く、
生まれた時から、生きづらさを創り出す環境しか知らずに育ったからです。

生きづらさを背負った人の心は、ずっと重々しかったのですが、
軽やかな心持ちになった事が無いから、比べ様も無く、気が付きません。

比べ様も無く、気が付き様が無いとも思えるのに、気が付く人は居ます。

気が付いた人は、不可能を可能にしたと言って良いと、私は思います。

気が付いたその事が既に尊い、と思うのです。


そして、気が付いた人は、生きづらさを手放す決意を固め、自分と向き合おうとします。

長く続いた苦しみに終止符を打とうとします。

その時に、迷い込み、見失い、足踏みをする人は、少なくありません。


冒頭に、
生きづらさを手放すことと、
自分を育てなおすことは、同じと言いました。

生きづらさとは心に、確かな【自分】という意識、が育っていない状態です。

だから、生きづらさを手放すには、【自分】を育てる必要があり、
【自分】が育ったなら、生きづらさを手放す事が出来るのです。


言葉には力があります。

特に、形が無いだけに、心、を言葉に落とし込む時には、細心の注意が必要だと思っています。

迷い込み、見失い、足踏みする人は、生きづらさを手放す、という表現に引っ張られて、

これまでの自分を否定する方向に進んだり、
これまでの自分から変わることを追い求めたり、
外に神や敵を創り出したり、
外から答えを与えられるのを待ったり、

といった脇道に入り込む事が少なくありません。


先に述べた様に、
気が付いたその事が既に尊い、のです。
これまでの自分を否定するのは逆の方向を向いています。

変わろうなんて思わなくても、心に【自分】が育ったら、自然に、変わってしまいます。

心のこと、は全て自分の心の中にあります。
誰かを崇めること、誰かを憎むこと、は、自分と向き合う中で、一時的に通る道ですが、それは通過点であり、安住する場所ではありません。

誰かが外から気づきのヒントを投げてくれる事もありますが、それはあくまでもヒントに過ぎず、自分と向き合う事が始まりで、自分と向き合う事が全てです。

手放す、のは、生きづらさ、つまり、長く続いた、苦しみ、です。

苦しみを背負っても、今日まで生き抜いた自分と、自分が生きた軌跡を、心から褒め讃え、無条件に受け容れる事が、目指すべき方向だと考えます。

自分が自分の一番の理解者になり、世界を敵に回しても、ずっと最高の味方である、と言い切れるまで、自分と向き合うのです。


生きづらさを手放すことと、
自分を育てなおすことは、同じです。

苦しみを断ち切るには、決断が必要です。
決断する為、目指す方向を強く意識する時には、
生きづらさを手放す、と呟けば良いでしょう。

苦しみを溶かすには、自分に対する優しさが必要です。
生きづらさを抱える人にとって自分に優しくする感覚は馴染みがありません。
馴染みが無くても、永続的に自分に優しく接する為に、自分を育てなおす、と肝に銘じると良いでしょう。


生きづらさを手放す、は決断の為に、
自分を育てなおす、は苦しみを溶かす為に、

同じ意味を持つ言葉ですが、

自分と向き合う中で、

使い分ける事も、大切ではないでしょうか。


形の無い、心のこと、の、とりわけ手強い、生きづらさ、ですから、

言葉の引力を適切に使って、

軽やかな心になって欲しく思います。

方向を定め、決断を下したら、

必ず届きます。


生きづらくとも、

今日まで生き抜いた人は、

本当は尊く、強い存在なのですから。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム


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