トラウマは消えて無くなるのか

トラウマ、心の傷、思い込み…、

どれも同じことを指しています。

心のこと、を考える時、様々な切り口から切って眺めて、一番しっくり来る角度を探す必要性があります。

この角度からではしっくり来ない事が、少し視点を変える事で、腑に落ちることは、とても多いのです。

心は一人ひとりが違っていて、二つと同じ心はありません。

ある人には理解し易い話しの切り口や言葉のチョイスが、別の人にも解り易いとは限りません。

だから、同じ事柄を別の言葉を使って、切り口を変えて、色んな角度から腑に落ちるまで探る訳です。

トラウマ、心の傷、思い込み、も、同じ事を指していると捉えて良い、と思っています。

今回は、トラウマ、と表記しますが、しっくり来なければ、心の傷、や思い込み、と変換して頂ければ、と思います。

お話ししたいのは、

生きづらさを手放したなら、
トラウマは消えて無くなるのか、という事について、です。 

と言いますのも、

生きづらさを手放す決意を固めて、自分と向き合い始めた人が、

幼少期に心に抱えてしまったトラウマを消し去ろうと躍起になる事が多く見られる様に思うから、です。

トラウマを消そうとすると、トラウマを抱えている今の自分を否定する方向に、どうしても向いてしまいます。

長く苦しんだのは、確かにそのトラウマが有ったからですが、

自分と向き合い始めたのは、生きづらさを手放す為であり、

トラウマを消し去る為ではありません。

長く苦しんだ原因であるトラウマを消し去ろうと思うのは、ある意味自然な事なのかも知れませんが、

それでは、トラウマを否定し、トラウマを抱えた自分を否定し、生きづらさを手放す事からは離れてしまいます。

そもそもトラウマは、自分と向き合う事で、その効力を失わせる事は出来ても、綺麗さっぱり無くなる事は無い、と思っています。

トラウマの効力とは、自分を生きづらさに繋ぎ止める楔(くさび)としての効力です。

自分と向き合う事で、トラウマが効力を失っても、楔が打ち込まれた痕跡は残ります。

つまり、幼少期のトラウマが、自分と向き合う事によって、その効力を失い、生きづらさを手放す事が出来ても、

心に楔を打ち込まれた痕跡は残ります。 

生きづらさを手放したから、愛情溢れる親の下に生まれ育った健やかな心を持つ人と、同じ、になる事は無く、

心の内壁に楔の痕跡は残ります。 

痕跡は残っていますが、トラウマという楔は繋ぎ止める効力を失っていますから、

生きづらさは、手放す事が出来ます。


トラウマ自体を痕跡までもを、綺麗さっぱり消し去ろうとする人は、

生きづらさを手放したら、
愛情をたっぷり注がれる親子関係に抱かれて育ち、生きづらさにも、トラウマにも縁が無い、健やかな心を持っている人になれる、と思っています。

けれども、充分な愛情を注がれる事なく育ち、トラウマを抱える生きづらい人になったのですから、

同じ、にはなりません。

同じにはならなくても、生きづらさを手放して、軽やかに生きる事は出来るのです。

その為に、自分と向き合い、今の自分を丸ごと受け容れます。

抱えているトラウマまで含めて、ありのままの今の自分を受け容れます。

トラウマまで含めて丸ごと受け容れる為に、トラウマを抱えるに至った理由を、過去を辿って腑に落とすのです。

腑に落ちたなら、トラウマは効力を失い、心の内壁に残るのは、単なる痕跡です。


たとえば幼少期に、「お前は何も出来ない奴だ!」と親から散々言われ続けた事がトラウマになっていた、とします。

自分と向き合って、丸ごと自分を受け容れて、トラウマは効力を失い、生きづらさを手放し、軽やかな心持ちで人生を歩み始めても、

何も出来ない奴、という言葉を投げかけられたり、役立たずという扱いを受けたなら、

心の内壁のトラウマの痕跡は、にわかにその存在感を主張します。

「この言葉や扱いに随分苦しんだな」 

とはっきりと感じます。

感じますが、呑み込まれたり、振り回されたりする事は、無くなります。

トラウマまで含めて自分を丸ごと受け容れたから、です。


トラウマを消し去ろうとする事は、

変わろう、とする事、

変わろうとする事は、

自分を否定する事、 

自分と向き合い、生きづらさを手放す方向に歩み始めたなら、

目指すは、

今の自分をトラウマまで含めて、  

丸ごと全部、受け容れること、

だと思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム















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