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感情を大切にすることで人生は、自分のもの、になる

どんな人生を送ったなら、悔いが残らないか、と考えた時、

私は、自分として生きる人生、だと思っています。

つまり、成功という結果を欲して、また、失敗という結果を避ける為に、

自分を抑え込んで、結果、成功を掴んで安堵はしても、失敗を回避して安堵を得ても、

自分を抑え込んだ時点で、そこに満ち足りた感覚、は生まれない様に思います。

つまり、自分の感情に沿って、選ぶ、ことでしか、満ち足りた気持ちには、届かない、と思っています。

事の成否は、出来事でしか無く、人は自分の感情を燃焼させる事で、喜びや幸せに歩み寄ることが出来るのだ、と思っています。

勿論、生きていれば、自分の感情を燃焼出来る場面は、限られます。

限られているからこそ、感情を燃焼させる事の重要性に気付いている事が、人生を豊かにする、鍵、の様な気がします。

生きづらさを抱えてしまった人は、自分の感情の重要性に気がついていません。

生まれ育った環境に於いて、自分の感情を蔑ろにされ続けたからです。

泣きたい気持ちが溢れ出して、涙が零れそうな時も、親が泣くことを嫌ったなら、自分の気持ちを投げ捨てて、親が望む通りに、笑ってみせる環境です。

つまり、自分の感情は何の意味も無いばかりか、湧き上がっても投げ捨てるだけの、邪魔なもの、だった訳です。

だから、自分の感情の重要性を知る筈も無く、
感情を粗末に扱います。


かつて、自分の感情を尊重される環境に育った人は、
幼少期に泣きたい時に泣く事を、はしゃぎたい時にはしゃぐ事を、
過度に制限される事が無かった為、自分の感情の大切さが身に沁みて分かっています。

あの時、自分の泣きたい気持ちを優先して、燃焼する事が出来て、スッキリして前を向く事が出来た、という体験が、思考では無く、感情レベルに溶け込んでいて、

感情を大切に扱う素地になっています。

感情を大切に扱う素地が出来ているか、それとも、
感情は粗末に扱って構わないもの、という思い込みを持っているのか、は、

人生を悔いなく生きることを考える時、実に大きな違いになる、と思っています。

大人になって、社会と密に関わり合う程に、
感情をその場その場で燃焼し尽くす事は難しくなります。

営業会議で自分の意見が却下されたからと言って、泣きじゃくったり、拗ねたり、怒ったりは出来ない訳です。

しかし、スーツに身を包んで、ネクタイを締めたビジネスマンの、今の自分であっても、

傷ついたり、悲しかったり、悔しかったりする気持ちは、変わらず有る訳です。

この時に、感情を大切に扱う素地が出来上がっている人は、

外に表す事が許されなくても、悲しさや悔しさを見失う事がありません。

ましてや、投げ捨てて無かった事になどしません。

大切なもの、だからです。

その大切な感情を噛み締めて、外に表す事が許されない、不完全燃焼をも把握します。

不完全燃焼を自覚するからこそ、趣味や家族との団欒などによって、不完全燃焼の煤(すす)を心の中に出来るだけ残さない様な対処を心がけます。

感情が大切である、という素地が出来上がっている人は、自分の感情の燃焼、という基準を持っている事が、

心の整理整頓に繋がり、生き方にリズムや節度を保つ事が出来易い、と感じます。


感情を粗末に扱っても構わないもの、と捉えている人は、

泣きたくても、笑ってみせた幼少期そのままに、大人になってからも、自分の感情を無かった事にしてしまいます。

そもそも基本的に、自分の感情に価値など無いと思い込んでいますから、
感情が心の中の基準になる事がありません。

結果として、場当たり的な生き方になりがちです。

感情よりも、眼の前の人に良く思われる事が優先します。

八方美人や、妙に物わかりが良い人、などが、そうです。
突き詰めれば、ポリシーがありません。

感情よりも、外の何かに過度に依存する事が優先します。

心に基準が無い為、外の事に過度に、もたれかかります。
他者であったり、嗜癖であったり、現れ方は様々ですが、酒、ギャンブル、性、などに浸り込んだり、仕事中毒(ワーカホリック)なども、そうと言えます。

感情よりも、結果が優先です。

感情を燃焼させる事に頓着が無く、眼の前の他者や、周囲の賞賛が欲しいのですから、プロセスには意味を感じる事が無く、結果至上主義にどうしてもなりがちです。


人生の終焉を迎えた時、一点の曇り無し、悔い無し、と言える人がどれだけいるのかは、分かりませんが、

そこに近づきたい、と思うなら、

人生を、自分として生きる、ことは欠く事が出来ない様に思います。

自分として生きるには、感情を大切にする事が、最重要である様に思います。


感情を蔑ろにするしか生き抜く事が出来ない環境に育ったとしても、

感情の大切さに気づくことは、

いつでも、何歳の時であっても、

叶う、と思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム






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