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【短編小説】

 二月下旬のことだった。O 駅から路線バスに乗り込んで、ひとり座席に腰かけていた。バスは停車していた。次の発車まで後五分だった。時刻はちょうど二十一時を差し、これが最終の便だった。
冬も終わりを迎えていたが、窓硝子からはまだ微かに冬の匂いが感じられた。夜なのに街は明るく、ネオンの光が鬱陶しかった。私は街ゆく人の姿を目で追い、発車を待っていた。皆揃ってより強い光に向かうように、駅やビル、ロータリーで停車しているタクシーに人は入り込んでいった。
 その光景に、何故かあまり心地良い感じがしなかった。街の最も暗い位置を探し歩く人はいないのだろうかと思った。何故そう思ったのかははっきりしなかった。居ても立っても居られなくなり、席を移動し光の少ない位置を探した。当然、ほんの少し眺めを変えたところで、何かが大きく変わるわけでは無かった。ただ、さっきよりも人通りは少なかった。街灯りが人の代わりに、雪解けの道を煌々と照らしていた。雪解けは、宝石の破片のように鋭い光を保っていたり、艶やかな水溜りの光沢があったりしていた。足場の悪い道だった。
 発車の合図がなりバスが走り出すと、雑踏やネオンが次々と流れていった。私はまた心地が悪くなった。瞼を閉じて光を遮断するとその感覚は消えていった。それどころか、まるでこの暗闇の中に自分の幸福があるような感じがした。ずっとこのままの気持ちでいたいと思ったが、いつのまにか眠っていた。夢の中で、私はあの頃を回想した。
 あの頃、私の掌にはラメがよく光っていた。
キラキラとしているものが好きで、ビー玉やおもちゃの宝石、スパンコール、グリッターのシールといったものを集めていた。母は私によくそれらを買い与えてくれたし、手を繋いだときに付くからか、母の掌にもラメはよく光っていた。
母は綺麗な人だった。職業を詳しく知らないが、男を相手にする仕事だということは、子どもながらに悟っていた。母は夜になると露出の多い格好をし、左手の薬指にシルバーの指輪をはめていた。指輪は小さな蝶のシルエットの中にダイヤの敷き詰められたようなものが付いていて、それが高価なものかはわからないが綺麗だった。その指輪の蝶は、私に母との別れを連想させた。単に蝶が飛び回る生き物だからそう感じたのか、蝶に母の容姿を重ねたのかは今でははっきりと覚えていないが、その連想による私の予感は命中した。街灯りに消えてゆく母を玄関で見送ったのが最後だった。いつも夜は明るかった。

目が覚めたとき、バスはどこかを走ってい た。私はあたりを軽く見渡し、乗客に四十前後の男と、二十くらいの女が揺られていることを確認した。男女がいつ乗り込んだのかはわからなかった。男は私の席の斜め後ろの方に、女は三つ前の優先席に座っていた。    
女は小さな体を小さく縮め、歯の音をガタガタと鳴らして震えていた。車内は生温かく寧ろ少し暑いくらいで、私は女がどうしてここまで震えているのかが不思議だった。女は心の病を患っているのかもしれないし、あるいはこれからどこか不吉な場所へ足を運ぼうとしているのかもしれないとも思ったが、これはただの想像に過ぎなかった。
窓硝子の向こうは、通りすぎていく車のライトに、ぼんやりとしたオレンジ色のネオンが映っていた。後は車内の灯りが反射し、私の顔が歪んで映し出されていただけだった。 次の停留所を告げるアナウンスが無ければ今がどこにいるのかわからなかった。この時アナウンスは次の停留所がFデパート前で あることを伝えていたが、Fデパートはつい先月に閉店したばかりであり、降車ボタンは男も女も押していなかった。
バスがゆっくりと減速したとき、私は窓硝子から新しい乗客の姿を探した。停車するとドアはプーっと間抜けな音を出し、夜の街を無防備に晒した。待つ人は誰もいなかった。ただ街灯が錆びた停留所の看板を不自然に照らし、その後ろにはF デパートが闇の中に隠れていた。目を凝らさないとノーマルな黒にしか見えなかったが、凝らせば見えるということに私は安心していた。
運転手は、停留所に人がいないのを確認し、再びドアを閉めた。それにより呆気なく夜の街と車内の交通は遮断され、次の停留所「西四条の何丁目」とかいう住所が伝えられた。男は降車ボタンを押したらしく、車内のあちこちで赤色の「止まります」が光り、この時の時刻は二十一時十二分だった。
バスが停車し男はスマホを片手に歩き出していった。黒色のウェアにジーンズを履き、特別印象を受けるような顔立ちはしていなかった。「男だな」ということ以外、性格・職業・人付き合い・女遊び… など、何一つ想像を膨らませることもできないような無個性な風貌だった。これでは女の私にとって、その男が害を与える存在なのか否かがわからなかったが、そういう何もない男ほど危険かもしれない。結局、私は男を疑った。
男は一度だけチラリと女の方を向いた。その後すぐにスマホに視線を戻し、もう片方で小銭をパラパラ入れバスを降りていった。私はその男の様子に心拍数が僅かに上がるのを感じたが、窓硝子から男のシルエットが闇へ溶け込むように消えていくのを見るとそれは収まっていくようだった。男がスマホを見ていなければ、より完璧だったのに。
女はさっきよりも強く歯をガタガタ鳴らし震えていた。その音がうるさいので「女も降りれば良い」と思ったが、本当は女の音に苛立っているわけでも無かった。私は自分の感情を整理しようと試みたが暗中模索といった感じでそれらしい言葉は見つからなかった。ただ、「うんざりだ」とだけはっきり思ったところでバスは痺れを切らしたように発車した。    
 再び窓硝子に視線を映すと、車内の温かさで少しずつ窓硝子は曇っているようだった。ネオンの解像度はさっきよりも低く、滲んだ赤や黄や緑が闇の中に続き、バスはその一つ一つを淡々と通り過ぎていた。現に今、見えていたものが消えてゆく。この感覚は私に恐怖を感じさせた。
私はそれを払拭するように、腕時計の時刻を見ていた。時刻は二十一時二十三分を差した。幼い頃の私が一人で眠り、母が誰かと寝ている時間帯だった。私は時刻を確認しては過去のことを思い浮かべる癖があり、それは無駄なことだとはわかっていたが「何か」を思い浮かべなければならないという強迫がいつも私を動かし、時刻を確認する行為に繋がっていた。
 私は眼を閉じた。「何か」を深く探る為には視界を暗くする必要があった。簡単に見えるものに用はなかった。眼を閉じると軽い頭痛と瞼裏に黒の濃淡を感じて、言葉が浮かんでいった。
酔った 頭痛い 今何時 雪が解けた 疲 れた ヒラヒラ蝶々 駄目だ 何も浮かばな い
それは脈絡もない単語の羅列だった。この頃の疲労の蓄積や頭痛がいけないのだと私は思うようにした。眠ることを決めたが、視覚の遮断によって聴覚が過敏になった。秒針のタイトなリズムが女の音とずれていることに、今度は何故か苛立った。
「次は… 次は… 、お降りの方は降車ボタンを押してください」
しかし、それはすぐに消えていった。瞼の一部が微かに赤く光ったからだ。

「ママは昔、歌を歌う人になりたかったの」
あの時、母は、私の額に手をあてながらこう言っていた。それは私に語りかけているというよりは、母自身が自分の辿る結末を始めから予感し、間違えようも無い答え合わせをしているかのような言い方に、私は思えた。
 私はそのとき、母の眼をぼんやりと見つめていた。正確に言うなら、母の眼に映る私を見つめていたのだろう。黒い硝子玉のような瞳に私の顔が歪んで映っていた。母はそれ以上何も呟かなかったと記憶している。
 母の後ろで、振り子が放物線を描くように左右に揺れていたことは鮮明に覚えていた。この時、時刻は二十時十四分だった。リビングの方からはオルゴールの旋律が聴こえ、それは「水の戯れ」だった。母がよく聴いていた。光の加減とともに変化する色彩と音響を表現しているこの曲は、私も嫌いでは無い。
オルゴールは少しずつテンポを落としていた。それは振り子時計のテンポと重なったがすぐにずれ、完全に停止した。音色が消えた時、残された振り子の動きをハッキリと感じた時、何故か恐怖に襲われた。母は心配そうな眼差しで私の額に掌を当て続けていた。私は何かを言おうとしたが、自分の感情に見合う言葉が見つからないままだった。
二十時二十分。母は指輪を付けて夜の街へ と消えていった。枕元にはビー玉や宝石の数々が無造作に転がっていたが、そのとき私の掌にラメは一粒も残っていなかった。
「次は、西× 条× 丁目、西× 条× 丁目、お 降りの方は降車ボタンを押してください」
私は、こういうバスのアナウンスにハッとし目を開けた。視線の先に、女はもういなかった。慌てて外を見ると見覚えのある風景が街灯に照らされていた。いつの間にか、私の家から一番近い停留所にバスは辿り着こうとしていた。
私は急いで降車ボタンを押し赤色の「止まります」が、バスの至る所に光るのを確認した。脳は覚醒しているが、指先に力は入らず身体が頼りなかった。覚束ない手でカバンから財布を取り出し、小銭四百円と切手を確認した。それから時刻も確認した。腕時計は濡れており、私は自分が泣いていることに気づいた。混沌とした感情を整理し、私は冷静になろうとした。
ーー何故泣いている。母が恋しくなったからか。泣いていることに気付いたからか。
しかし、それは逆効果だった。言葉を浮かべていると途端に自分は何かを表現しなければいけない焦燥感に駆られた。
――母に似て、特別な才能も、言葉も何も無 いからか。
「次、止まります」
容赦ないタイミングでアナウンスは鳴り、 バスはゆっくり減速した。
ーー私は、大切なことほど簡略された単語の 短文で終わってしまう。「うんざり」だとか 「眠たい」だとか「疲れた」だとか… 。それは才能の無さによるものなのか、それとも「才能が無い」といった、ただの妥協によるものなのか、その境界も曖昧でわからない。
 バスは停車し、空気の抜けた音がした。ドアが開くと同時に、ひんやりとした夜の風が車内に吹き抜けている。私は立ち上がり、身体がふらふらするのを感じながら歩いた。今ならば、とあの頃の感情を何か言葉にした。上手くいかなかった。
――怖い。言葉は無邪気に過去を切り貼りしていく。無数の思いはいつもどこかへ消えてしまう。こうして母との過去を少しずつ忘れていくのが怖い。
 涙を拭えなかった。涙の行方を最後まで見届けたかった。小銭と乗車券を落とし、私はバスを降りていた。外は微かに雪が降っており、まだ肌寒かった。すぐには歩き出さず、街灯の下でバスが走るのを見つめた。バスは微かな雪に囲まれてネオンの光を淡々と通り過ぎる。ただ次の停留所へと向かっている。私はその光景に、喪失感を抱いている。しかしその時、雪が私の掌にゆっくりと溶けて馴染んでいく。再びあの幼い頃の掌を思い出す。

――ああ、こうやっていつも思い出してきた。 忘れたくないという思いは、ずっと刻み続けてきた。溢れ落ちてしまった何かを想像し続ける。私はそれをいつだってやってきた。
バスは一つ先の停留所に止まった後、左に曲がり見えなくなった。バスの光はまだ見えていた。バスはこの街の闇に明かりを運んでいた。ビルや駅はこの辺には無いが、車やタクシー、パチンコ店、廃れた風俗店などがさっきの光景と同じようにただ雪解けを静かに照らしていた。涙が頬で固まっていた。夜の街はこんな時ばかり、優しいのか。わからない。これも全部、独りよがりの妄想だ。
母は夜の街で、何を考え、何を感じて歩いていたのだろう。私は再び想像し歩くしかなかった。足を滑らせないように気をつけながら、でも震えた身体を温めるように、リズムを崩さず歩いている。光と闇、寒と暖、通り過ぎるものと立ち止まるもの、生まれるものと消えゆくもの。この街の夜には、全てが存在している。雪解けの光が私の歩調に合わせて揺らめいていた。
「街のギラギラ、ネオンのボヤボヤ、雪のキラキラ、水のユラユラ、車のチカチカ、バス のユラユラ」
誰かがつくったオノマトペを思わず呟く。私には才能も何もなく、言葉に意味を持たせようとすれば、それはいつも上手くはいかなかった。しかし、歩くリズムに合わせて出たオノマトペは、嘘にならない私の感情そのものだと思う。
「ラメのキラキラ、蝶のヒラヒラ、女のガタガタ、振り子のユラユラ、涙のポロポロ、秒 針チクタク」
今この瞬間、全ての事象を重ねるように、私はひとつひとつ呟く。足元には宝石や水面が広がっている。私はまた過去を想う。あらゆるものから過去を連想し家へと歩き続け、それから、ずっと遠くの闇を見て、あの場所にある雪解けを想像する。
私が想像をやめない限り、私がこれから生み出そうとしている音楽は、母との時間の全てを重ねていくはずだ。私の歩く速度、テンポ60に合わせたゆったりとした音楽を作ろう。メロディーに乗せれば、歌詞は思い浮かぶかな。なんて、気取った想像をしながら私は歩き、寒さできっと、顔が赤くなっていたに違いない。
腕時計の時刻は九時四十五分だった。

—— 「ただいま」
「ママ、おかえり、ママ。早くベッドの中で眠ろうよ」
「んー、ただいま。シャワー浴びてくるから、それまでいい子で待っててね」
 ベッドの中で母を待っているとき、水の音が微かに聴こえていた。私は微睡の中で、今も、それを聴いている。

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