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【極私的読解】『或社会主義者(芥川龍之介作)』をこう読む ~その3[最終回]~

いよいよ『或社会主義者(芥川龍之介作)』の極私的読解最終章です。

恥ずかしながら私が読んだモノローグ朗読はコチラ。
あまり上手くないぜ。これからこれから!

さて、前回の極私的読解では本文前半…
つまり、社会主義に情熱的…というか傾倒しすぎて親子の縁切りも厭わない、なにやらキケンな匂いのする『実行』も企てていた彼が…あれ、ちょっと、なんか嫁はんもろた頃合いから彼、変わってきてない?っていうね、徐々に変化が見られた前半戦。肌つやが違うよ?
彼は、愛犬と自宅の庭でポプラァの木を見上げてニヤニヤする平凡夫に染まりかけてきてました。平凡パンチ!

「それって、なんか資本主義的な幸福なんじゃないの。社会主義の情熱はどこに行ったのよ、ダンナ!」

と、問われたら「いやぁ、俺自身は変わってない!…って自分の心を信じてるから!」という、なんとも他人事のような物言い。芥川君曰く。
芥川君もフォローしてくれてんねんで、これでも!

…というような始末でした。前回はコチラ。

今回は後半戦です。楽しみですねぇ。

前回同様「ここは重要やなぁ」とか「これはようわからん」という個所をあくまで極私的な解釈でメモしていきます。正しい解釈ちゃうど。

青空文庫はコチラ。

※題材はパブリックドメインのものを使用しております。

 

では、今回も私の原稿を基に見ていきましょう!
<2ページ目>

【11】彼等…ゴホン!…えと、彼の…同志

『彼等はーー彼の同志は・・・』

ちょっと芥川君!痛いところを粒立てるのヤメレ。
言い直さなくてもよろしいやないの、悪いお人やで。

…とも思いましたが、率直なところ「もはや『同じ志』という想いは彼の一方通行」ということを顕わにする言葉ですね。現に、彼等側から見た彼は、次のセンテンスにある「怠惰」という辛辣な言葉で表現されています。

『新にはいってきた青年たち』とは、一昔前…彼が青年だった頃を投影する存在ですよね。当時の彼は家族の縁をも断ち切る覚悟だったが、今や【09】に記載したような家庭人になりつつある…

革命に熱量を求める若者からは、もはや行動はなく御託だけの彼は『同じ志』とは言い難い存在。「たまに来て、っぽい事言ってくるけど何も響かんわ。」といわれててもおかしくない。うーむ…さすがに切ないな…

 

【12】彼の情熱…③

彼等(の若い青年)との軋轢から、団体と距離を置きだした彼。
しかし家庭では、お父ちゃんになりました!…そしておとんはお爺ちゃんになりました。そらそや。初孫可愛がってそう。勘当しなくて良かったな。

そして…来ましたキーセンテンス。。。

彼の情熱は……
(ドゥルドゥルドゥル・・・※ドラムロール)

ババンッ!

『やはり社会主義に向かっていたーッッ!!』

…です。ほっ。よかった。
でも弱いよね。社会主義に向かっているか向かっていないかが論点になってきた。そして重要なのは次のセンテンス。

『夜更の電灯の下に彼の勉強を怠らなかった』

なんたる孤独な描写…
彼の家は、言うて小さいのよ。煌々と電灯をつけられないのよ、嫁さんと赤ちゃん寝てるから。
それより重要なのは、彼等とも距離ができた彼は、もう社会主義者としては孤独な存在なのよ。暗闇の中、彼だけにスポットライトが当たっているような、そんな比喩表現でもあると思う。あーさみしい…

みんなが寝静まった後、誰を頼ることもなく、ただ一人社会主義と向き合う…温度としてはかなり冷ややかな印象。怠らない事が情熱?
情熱ではないと思うな。これまでの自分をもはや否定できぬ事や団体の若い青年たちを説き伏せたい、というような自分を肯定する為の義務感で続けているように解釈しました。

 

【13】物足らなくなった自著の論文

「『リイプクネヒトを憶う』に物足らなさを感じたのはなぜか。」

これははっきりしたことは書かれていませんが、明確な意図を持って書かれているところなので、うぐぐ、避けては通れません。避けたい。

これを読み解く前に、次の行を見てみましょう。

『彼等もまた彼に冷淡だった。』

コレです。この『もまた』が引っかかります。何に対して『もまた』なのか。彼等以外に彼に冷淡だった者がその前にもないと『もまた』という日本語はおかしい。

それは正しく『リイプクネヒトを憶う』の事でしょうね。
『リイプクネヒトを憶う』は彼に冷淡だった。

この論文が、『(若き日の彼の)情熱に富んだもの』だった事は作中に示されています。彼が【10】で言ってたように、あの頃と変わっていなければ、この論文を読んで「ええこと書いてるやん!」と高揚するでしょう。
しかし実際はそう感じなかった。この論文は、彼の情熱があの頃から変わってしまった事を突き付けた…これを芥川は「冷淡」とした。

でも彼自身は気づいてない様子…これが自著の論文に対する「物足らなさの真相」と思われる。昔の論文読んでもなぜか情熱が呼応しないこと。(今ある幸福感を説明できていない矛盾もあるかもしれない。)

そして、【11】で書いた通り現団体の「彼等」は、青年時代の「彼」に置き換えられる。『物足らなさ』と『非難するに足らない』は、意図して同じ言葉を使っていると思うのだが、つまり、「過去の彼が今の彼を見たら、非難するに足らない、物足らないだろう」という意味も含まれているようにも感じる。論文の中の若い彼がそう言ってはんねんて。

この【13】がこの題材で一番重要なポイントだったと思う。劇的。

 

【14】君…もう普通のおじさんだよ?

【13】に書いたように、彼自身は自分を客観視できていないのよ。
もう団体の活動から切り離されて…というかもう、ほぼほぼ除名されたような感じなのに「あいつら分かってないわー。ちょっとまぁ、わしの話聞いてんか。」と、いまだ社会主義の最前線にいるつもりで友達に語ってるんやけど、もう、飲み屋での普通の愚痴になってしもてんねん…

「まぁ、今日話聞いてもろて、ちょっとスッキリしたわ。ほな、またLINEするさかい!来月また!」

みたいな感じで、なんら生産性のない話で気持ちよくなって家に帰る…

芥川「いや、それもう、普通のおっさんやがなっ!」

…ついに言われちゃいました。。。

 

【15】それからそれから…

社会主義者として語られる彼は、【14】で芥川君に突っ込まれたところで最後。数年後の彼は、完全に資本主義社会を謳歌しておりました。

会社でも労働階級どころか、経営者側に近い存在。家庭では良きパパ。
『兎も角大きい家』ってなかなかの表現よ(笑)言ったことないよ!

さて、読み方に関してですが、歳も重ね、活動家とは真逆の穏やかな生活を送っておられるので、柔らかくゆったり読むように意識しました。技術的なことは、回を重ねて学んでいきまっしょい。

 

【16】彼の情熱…④

『そのどこにあるかということは神の知るばかりかも知れなかった』

穏やかになったものです。社会主義どころか、何か情熱が燻っているものがあるかどうか、本人にすら分からないということでしょうか。

日々の生まれた喜びや哀しみを享受しながら、流れのままに生きているという事でしょう。それは彼が社会主義思想を必要としない生活を獲得したからともいえる。裕福な生活があってこそ。

 

【17】青年時代…そんな~時代も~あったねと~♪

『彼の心を憂鬱にすることもない訳ではなかった』

…ってどっちや?

「憂鬱にする。…こともない。…訳ではない。」

…たまに憂鬱になるってことね。おのれ芥川。
籐椅子に座って、煙草吸って、青年時代を思い出して、憂鬱になって…

少女マンガやんッ!
窓辺で気だるく「フー・・・」ってやつかな。

しかし、彼にとってはもはや嗜好品と同列。思い出したり出さなかったり。その程度じゃないかな。「自分の思想と活動で救えた人もいたかもしれない」とか憂鬱に、…というかちょっとおセンチな気分になっちゃう事も含めて、まさに思い出。青春とも言い換えられるかもしれない。

 

【18】『東洋の「あきらめ」』とは?

この題材、一番の謎ワード(笑)

これは、本当によくわからんかった。…けど、一応調べてあたりはつけました。芥川の意図とはまるで違うかもしれません。

「あきらめる」という言葉は、断念・ギブアップの意味で使われることが多いが、仏教語では「satya(サティア)」、真実・真理・悟りを意味する言葉らしい。日本語の語源も「諦める」と「明らか」は同源で、「物事の真理を明らかにすることで諦めへと導く」というニュアンスが「あきらめる」という言葉にはある、みたいな内容のコラムがあった。

つまり、彼は社会主義をただ断念したのではなく、社会主義や自身の幸福というものに向き合い、自分なりにつまびらかにしたうえで諦めたという自負が、漠然としたこの憂鬱を取り除いてくれる。という事でどうでっしゃろ。

まあ、彼自身は至上の幸福を手に入れている訳だから、この憂鬱は無い物ねだりみたいなものだよね。

<3ページ>

【19】目的は達成されていた?

【18】に記載した通り、彼は社会主義でもって誰かの救いになれなかった事へ、無い物ねだりのようなささやかな憂鬱を抱いていた。しかし、彼のあずかり知らぬところで、それは達成されていた(引き継がれていた)という事が書かれている。皮肉な話やなぁ。

しかも、最も情熱的だった青年時代…『リイプクネヒトを憶う』を書いたときに、彼の社会主義活動はすでに完結していたといえるのもさらに皮肉な話。

情熱に突き動かされていたはずが、社会に身を投じるうちに「情熱(そうありたい自分)」を証明するかのように行動するようになった彼。結果的には青年時代の純粋な情熱が人を動かし、以降の彼の行動は「籐椅子の上の憂鬱」だけを残した…というのはこじ付け過ぎだろうか。

 

【20】現在の彼・・・

さて、長らく読解してきましたがいよいよ最後のセンテンス。ここまでは全て過去形で書かれていましたが、この一文だけは現在形で書かれているので、これが近況なのでしょう。

「あの時ああしていればどんな人生になっていたかなぁ」

「あの時は酷く無茶なことしていたなぁ」

どのように思い出しているのでしょうね。彼は彼の幸福をすでに手に入れているし、大きく顧みることはしないでしょう。いずれにしても葉巻を楽しみながらの事。

心は移り行くもの。環境に順応するうちに、過去の行いが淡い羞恥心や後悔を生んだとしても、それが人間の常。そうやって人は歳を重ねていく…
『恐らくは余りに人間的に』は、そういう意味ととらえています。余りに人間的な解釈。冒険なし。
(ちなみにニーチェの著作に「人間的、あまりに人間的」というのがあるそうで、何か絡みがあるのかもしれません。)

 

【あとがき】

第一回で記載した通り、私自身がここ10年、まさに「籐椅子により、演劇をしていた頃を思い出す」状態にあったため、今回表現活動を再開するにあたってこの題材を選択したのです。社会主義者ではありません(笑)

「情熱の所在が神のみぞ知るとなった彼」をアンチテーゼとし、情熱の再燃に向き合うという事です。

しかし・・・

たかがペラ2枚半の題材に、余りに冗長な読解(笑)無駄だらけ。

最初から最後まで読むのは、未来の自分だけじゃないかと思うのですが、今後はもう少し短く回数を増やしてアップしようかなぁ。

ひとまず、最初の作品「或社会主義者」はこれにて終了です。
次回からは、夏目漱石やります。どうぞよろしく😊

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藤江なるし
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