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「べんきょう」だって役に立つ ~適応力~

こんにちは!Nakiです。開いていただきありがとうございます😊
この記事では、前の記事「勉強が好きな話 ~一歩踏み出そう~」の中で述べた「べんきょう」と「勉強」について考えを深め、私なりの付き合い方を皆さんに提示したいと思います。この記事に書いてあることを少しでも意識してみるだけで、宿題ややらなきゃいけないタスクへのストレスが減るかもしれません! 学生必見ですが、いろいろなことに通ずるお話も含まれています。学生でない方もぜひ読んでみてください♪(約3500文字、推定4~8分)



〇おさらい

まずはじめに「べんきょう」と「勉強」って一緒じゃん、と思っている方もいらっしゃると思うので、本当に軽くおさらいします。
ずばり、やらされているままにやるのが「べんきょう」で、自分から学ぼうとするのが「勉強」です。例えば宿題を言われた通りただこなすのは前者、宿題からもっと学び取ろうとしてそこから疑問点を調べたり質問したりするのは後者になります。
ここでひとつ注意点は、前記事の最後にもお書きしましたが、私は「べんきょう」を全面的に否定するわけではないということです。
それでは早速、お話していきたいと思います。


〇相違点、共通点から考えてみよう

まず皆さんは、この記事における「べんきょう」と「勉強」について考えたことはありますか?
わたしの推測では、恐らくこの両者については学校でも耳にタコができるほど聞かされてきたのではないでしょうか。たとえば「やらされている内はよくない」とか、「自主的に学べ」とか。しかし私は、恐らく今まで皆さんが教えられてきたのとは違った意味での区別を提示できると思います。端的に言えば、「これ、使い分けられたら良くないですか?」という話です!
この両者について考えてみるにあたり、私が注目すべきだと思ったのは、

「べんきょう」と「勉強」の相違点(違う部分)
「べんきょう」と「勉強」の共通点(同じ部分)

という2点です。この2点について、これから考えていきましょう。


①「べんきょう」と「勉強」の相違点(違う部分)

まずは2つの違いを見ていきたいと思います。といっても、

・やらされているか自分からやっているか
・指示する人がいるかいないか 
・学びの先にある新たな学びが見つけやすいか見つけにくいか

くらいしか思いつきません。3つめに関しては、与えられた課題をこなすだけだと次に何をすればいいかわからない(新しい課題が与えられるのを待っているしかない)、という状況です。これら相違点の視点から見てみると、明らかに「べんきょう」の方の印象が悪いですね。言われないとできないのか、などとよく言われるのは、このように考えているからだと思います。このうち、上2つは表面的な相違点でしかないので、本質に迫る今記事では除外したいと思います。


②「べんきょう」と「勉強」の共通点(同じ部分)

では次に2つの共通点を見ていきたいと思います。それはズバリ・・

・どちらもある程度の知識・技能は習得できる
・どちらも一定の時間を必要とする

ということです。同じ時間を使うんだから自発的にやったほうが、、なんて薄っぺらいことは言いません。大切なのは、1つ目の共通点です。
つまり、たとえ自発的ではなくても、やらされている事をその通りにやらされていれば(こなしていれば)、ある程度の力は付くということです。これは、私の小・中学校時代のエピソードを思い出していただければ納得できることだと思いますし、皆さんの経験から考えて頂いてもそんなに理解できないことではないと思います。それから、やらされている事=宿題と考えれば、先生がこれをやった方が良いと考えて課したものをこなせば力がつくことは当然ですし、むしろ宿題とはそういうものでなければ困ります。こう考えると、やらされていることも一概にだめなことではないんだな、と気が付くと思います。つまり、やらされている内容は必要なことなのに、「やらされているのはダメだ」などという非難が生まれるのは、表面的な見え方の良し悪しで判断している部分があるためだと思われます。
しかしもっと考えてみると、「やらされているのはダメだ」と言う人の考えがもう少し正確に理解できるようになります。


③相違点と共通点をまとめてみよう

ここで、相違点と共通点をまとめてみましょう。そうすると意外とシンプルになって、

「どちらも一定の時間は必要で、ある程度まで学べるが、その先に新しい学びを見出せるかが異なる」

といった具合になりますね。あとは、現実的に学ぶ状況を思い浮かべてみれば、私の言わんとしている結論にたどり着きます。
例えば、数学が苦手で英語が得意なあなたに、数学と英語の課題が課されたとします。しかし、この他にやるべきことも終えたうえで十分な睡眠時間を確保するには、両方の課題にそれぞれたくさんの時間を割く余裕はありません。さて、どうすれば自分にとって良い結果がありますか。上のまとめを頭に入れつつ、考えてみてください。

・・・答えは様々です。
◉まず両方を「勉強」として頑張った場合。新たな学びは十分に得られますが、睡眠時間が削られます。オーバーワークは良くないことです。
◉続いてどちらも「べんきょう」としてこなした場合。これでは、苦手な数学を克服することにも、得意な英語を伸ばすことにも繋がりにくそうです。
◉では、英語は「勉強」として、数学は「べんきょう」としてやってみたらどうでしょう。おそらく、得意な英語で更なる学びを得ることができ、苦手な数学は最低限必要とされていることをこなすことで,それ以上周囲に後れを取ることを防ぐことができそうです。
◉逆に、英語は「べんきょう」として、数学を「勉強」としてやってみると、おそらく得意な英語は復習・確認として学ぶことができ、苦手な数学で自分の弱点を探ることに時間をかけることができると思います。
・・・こんな感じで、答えは様々=「べんきょう」と「勉強」の使い分けも様々なのです。


〇それってつまり適応力

ここで、
上の想定をしていた時の皆さん自身の思考を振り返ってみてください。

恐らく皆さんは、「べんきょう」と「勉強」を課題をこなすための手段として考えていたのではないでしょうか?

この考え方は、今まで皆さんの思考とはきっと異なるものです。
まず第一に、ズバリ両者を手段として捉えた点です。これまでは、自分の行いを振り返って自主的だったかやらされていたを考えていたのではないでしょうか。それが今回は、物事を俯瞰的にみたうえで行動の前にそれを決定したのです。
もう一点は、「べんきょう」の方も選択肢に含めた点です。これまでは、結果を良くするために「自主的に学ぼう」と考えたことはあっても「やらされるがままにやろう」と考えたことはないのではないでしょうか。

これは、『適応力』への第一歩だと私は考えています。何事も、何度も経験していれば、直面している状況を俯瞰的に捉えてたうえで、とるべき選択肢の中から行動を選ぶようにして適応できるようになる、ということです。
もっとも簡単な例は「感情」です。こどもの時はどんなことに対しても自分の感情のままに行動しますよね。しかし年を重ねれば、些細な事に対して感情に任せて行動することはかえって自分の不利益になることもあるため、ちょっといらっとしたことがあってもグッと抑える、なんてことがよくあると思います。これは、「いらいら」や「怒り」などの選択肢を選ばず、「冷静」「落ち着き」を選択した結果ともいえます。こんな感じで、大きな視点で見て何がいちばん効率的かを選択肢に基づいて考えられることは、まさにその人の『適応力』に直結すると考えられます。話を戻しましょう。


〇結論

つまり、私が言いたいことは、日々の生活の中で課題や自学などの行動を起こす際に、「べんきょう」と「勉強」をその手段の選択肢として考えられるようになれば良いだろうということです。
もうここには、どちらが優れているといった議論はありませんよね。その状況によってどちらが好ましいかを判断できれば、それが最善なのです。
途中で触れた「やらされているのはダメだ」と言う人の考えというのは、ひとつひとつの課題に対してとるべき選択肢を判断しているのではなく、学校生活もしくは受験勉強全体に対してとるべき選択肢を私たちに薦めてくれていたのかもしれません。


いかがだったでしょうか。個人的にどちらかだけが正しいといった極論を好まないため、いつもこんなことを考えています。最後に「やらされているのはダメだ」と言う人の気持ちを推察できた時に、学びが深まった感覚を覚えてくれていたら嬉しいです。この記事を読んでくださった皆さんの生活がたったわずかでもより良いものになり、日々の中の「楽しい」が増えてくれれば幸いです!

最後に、この記事は「生きていく中で大切な考え方」というマガジンに入ります。ここには今回のような記事をこれからも投稿していく予定なので、興味を持ってくれた方はぜひマガジンのフォローをしてみてください!

それでは、最後まで読んで頂き本当にありがとうございました。これからの記事も、どうぞよろしくお願いします。一緒に「楽しい」を共有しましょう!またね~。Naki.

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