老人介護の裏表を知り尽くした男 池部恒司
池部恒司さんとはvoicyラジオを収録した時点で2回しか会っていなかった。初めて会ったのは、2008年、メルマガ「がんばれ社長!今日のポイント」を発行していた武沢信行さんとの有楽町での飲み会。1回しか会ってないのにお互い憶えていた。
でも、2007年から開催された福島正伸さん主催の「ドリプラ(ドリーム・プラン・プレゼンテーション)世界大会」でドリメン(ドリームメンター)として関わっていた池部さんは、コメンテーター(審査員)だった俺の事は会う前から知っていたようだ。そして、今年3月、同じくドリメンだったオバタさん(小幡英司さん)に誘われた横浜での飲み会で15年ぶりに再会したのだ。
15年ぶりの再会が決まると、池部さんは俺のnoteをフォローし、いくつもの過去記事に♡「スキ」をして、voicyラジオをフォローし、何人もの対談を聴いてくれた。さらに俺の最新刊「ようこそドラマチックジャーニーへ」を読んでサインを求められた。彼との対談放送後には「感謝や応援の気持ちを伝える放送への『差し入れ』」があった。池部さんを一言で表現すると「サラッと気遣いができて、人を喜ばせる行動ができる人」。だから、今、やっている老人介護の仕事は天職だと思えた。
ラジオ収録当日は桜木町駅で待ち合わせて、丿貫 福富町本店 (ヘチカン )でランチ&ビールをご馳走になった。煮干そばclassicは、濃厚なスープに刻んだ玉ねぎも硬麺も合ってちょうどいい。提供する直前に薄切にするレアチャーシューが抜群に旨かった。
そして3月、侍ジャパンがアメリカを下しWBC制覇した直後で興奮冷めやらぬ中、野毛の昭和レトロなカラオケ屋さんでリアル収録した。「リモート(ZOOM)と違って、対面だと脳活動の同期がある」と聞いたことがあるが、今回の対談で実感した。
彼は、この10年、介護職現場で相談員として家族と接し、家族の悩みや施設都合などの裏事情を知り、介護老人保健施設(老健)を4施設、特別養護老人ホーム(特養)を1施設、介護付き有料老人ホームを6施設と、合計11施設で勤務してきた。まさに老人介護の裏表を知り尽くした人だ。池部さんと1,155回目から1回10分、全7回のvoicyラジオ対談、フォローして聴いてほしい。
池部さんは、生まれも育ちも神奈川県横浜市。俺より3つ年上の1958年生まれの65歳(収録時64歳)。幼少期から中学まで野球少年で足も速かった。高校は、「文武両道」をモットーに掲げる鎌倉学園に入学するも、無気力・無関心・無責任の三無主義で、いわゆる帰宅部。大学受験に失敗し浪人時代にハマったのが梶原一騎原作の漫画「空手バカ一代」だ。50年前にTVアニメ化されて大ヒットしたマンガである。彼は大山倍達総裁の極真会館に入門した。校歌を覚えるほど早稲田大学志望だったが、明治大学に合格。大学の空手部に所属しながら、池袋の極真会館総本部道場に通った。道場破りが流行っていた時代、入門初日にフルコンタクトの「組手」をやってボコボコにされた。
なぜ、空手をやったのか?中学時代から大柄だった彼は目立っていた。そこでよく「挨拶がない」と不良に絡まれた経験があったからだ。去年から空手道場通いを再開し、シニアの大会出場を目指して65歳の今もトレーニングに励んでいる。身体的に大きな負担となる介護職を無理なく続ける意志の表れだと感じた。
就職氷河期と言われた時代、1982年に明治大学卒業後、システム開発するIT企業に就職し営業部に所属した。いわゆるバブル期といわれる1986年12月〜1991年2月まで、彼はバブル真っ只中を身を持って体験した。会社負担で毎日銀座のクラブで呑んで自宅までタクシーで帰った。ネットワークのセキュリティソフトや通信機器を販売する三菱商事の子会社の営業職で対人スキル、分析力、問題解決能力を鍛えながら18年勤めた。「段取り力があって気配りの人」池部さんの仕事力は、この18年で養われたのだと容易に想像できた。
ITバブルといわれる95年〜2001年の間、池部さんは時代に乗っていた!彼は2000年、ベンチャー企業に転職したのだ。資金調達が容易になる株式公開を目標に、経営企画室長として就任した。業績が悪化した時、業務改革してV字回復しようと営業部門の代表として奮闘するも、ITバブル崩壊で上場できず2年で退社した。その後、営業一筋18年の実績を活かし、いくつかの企業を渡り歩いたが、2006年、サラリーマンを辞めた。
小さな会社の支援をするシステムや制度、人材採用のコンサルを一人で始め6年間務めた。ITのシステム開発をマネジメントするITコンサル時代の池部さんと有楽町で呑んだのが、この頃だ。
2012年から人脈も知識も何もない、なぜ老人介護に関わったのか?介護を始めた原点を聞いた。
実は彼が38歳の時に、両親を同時に亡くしている。当時、親孝行できなかった後悔から、「恩返し」ではなくバトンのように受け渡していく「恩送り」をしようと考えた。しかし、他の業界よりも10万円は安いと言われている給料では、家のローンも払えない現実があった。そこで2012年、54歳となった彼は3ヵ月通ってヘルパー2級の資格を取得した。
彼が最初に選んだのは、特養(特別養護老人ホーム)ではなく、老健(介護老人保健施設)。老健とは、介護を必要とする高齢者の自立を支援し、家庭への復帰を目指すために、医師による医学的管理の下、看護・介護といったケア、作業療法士や理学療法士等によるリハビリテーション、また、栄養管理・食事・入浴などの日常サービスまで併せて提供する施設だ。
念願だった老人介護の世界・・・ところが1年で嫌になってしまった。「きつい」「汚い」「危険」3Kに加え、彼は「給与が安い」4Kだと考えているが、嫌になった理由はそこにはない。おむつ替えから食事まで全てが画一的な流れ作業で、一人の人間としての敬意がない。時間がない中、少ない介護士で運営しているから、個ではなく集団としてしか見ていないことが問題だと気づいたのだ。
1年経って様々な現場の問題を知って介護職を辞めようと思った時、タイミング良く欠員が出て、営業経験が買われて家族対応の支援相談員になった。準備のできてる人にチャンスはやってくる。営業一筋18年の経験が、ずっと活かされてる。
俺もあと3年で池部さんと同じ65歳になって前期高齢者になるタイミングで話せて良かった。対面で話すことで熱量も伝わり、より自分事として聞けたと思う。今、3歳の長男の父親として、息子世代が大人になった時のことを真剣に考えるきっかけにもなった。
いわゆる「団塊の世代」800万人全員が75歳以上、つまり後期高齢者となり、人材不足が深刻化することが予想される2025年問題、さらに「団塊ジュニア」が後期高齢者となる2060年問題・・・1人の老人を支えるのに1人の若者になることに直面する。大手企業が介護に乗り出し、カメラを設置するなどリスクヘッジに備えた体制を整え、効率化や生産性を重視したロボット化、IT化を進めているが限界がある。現場と制度の乖離をどうやって解消するのか?
池部さんから次世代の若い経営者の取り組みを聞けて「希望」が見えた。
明るい未来を感じる千葉県八千代市の施設「いしいさん家『52間の縁側』とは?
彼は、いしいさん家「52間の縁側」のオープニングセミナー&内覧会に参加した。1間が約1.82mだから、94.64mの縁側、めちゃくちゃ壮観だったらしい。「いしいさん家」を運営する石井英寿さんは、薬で抑えつけたり、縛りつけたりせず、「誰もがありのままに過ごせる場所を」という理想を掲げ、「なんで介護の世界に入ったとたんに、お年寄りと職員だけの世界になるの?誰もが『老い』や 『死』を感じられる場所を創りたい」と挑戦している。
誰もが持つ「死」への漠然とした恐怖・・・
石井さんは寄付や手作り・修繕で参加してくれた近隣の地域住民を「家族」として捉えて、将来、この施設にお世話になれるという安心感を提供したいとの想いがある。病院ではなく、自宅で家族に看取られるように、地域住民に看取られる開かれた、人の温もりのある施設だ。縁側で、みんなで同じ方向を向きながら、子どもからお年寄りまで語り合う暮らし、いい。
今は認知症で老人介護支援センターにいる大好きな母。
18歳で結婚し、20歳で俺を産んだ母は、ずっと「姉貴」みたいな存在だった。小学生の頃、学校が休みの間は母方のおじいちゃん、おばあちゃんに預けられた俺。今から思えば祖父と祖母と過ごした時期は、かけがえのない時間だった。毎日のように「愛の言霊」を投げかけられたように記憶している。
これから来る超高齢化社会に向けて、池部さんと同じく、自分にできることをやっていこうと思えた。人に優しい寛容な社会を目指したい。「結局は人対人」に共感した。「自らつくる」「脳が喜ぶコミュニケーション」「同じ方向を見る」が未来を明るくするキーワードのように思った。
「俺たちひとり一人は微力であっても無力ではない」。
池部さんとは共通の友人、知人が多い。以下、「ドリプラ」審査員仲間でもある3人!
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