アカデミー賞映画『オッペンハイマー』を観て思うこと🌟
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アカデミー賞で七冠を獲得したクリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』を、やっと観にいくことができましたので、感想を書かせてただきます!
公開直前の記事特集はこちら。
J・ロバート・オッペンハイマーはアメリカ合衆国の物理学者で、原子爆弾開発の「マンハッタン計画」を主導した人物。
オッペンハイマーは「原爆の父」として知られています。
ただし、本人は原爆を開発したことを後悔しており、戦後はアメリカの水爆開発に反対したことなどから、公職追放されています。
今回の映画「オッペンハイマー」では、彼が原爆開発に至るまでの栄光と、その後の後悔が克明に描かれています。
【映画『オッペンハイマー』予告編】
まず初めに、映画全体としての感想を述べさせていただき、そののち、この「オッペンハイマーと原爆を巡る問題」について考えたことを書かせていただきますね。
【映画構成の感想(ネタバレなし)】
映画『オッペンハイマー』は公開直後から、謎かけの多いクリストファー・ノーラン監督史上、かなり難解なストーリーと言われていました。
実際に観た感覚では、歴史的な前提知識がないと、何の話をしているのかが分からないのではないかな、という点が感じられました。
オッペンハイマーが原爆開発のための「マンハッタン計画」のリーダー科学者であり、「原爆の父」と呼ばれていたこと。
戦後は水爆実験などに反対し、政府側から目をつけられ、公職追放されたこと。
この辺りを知っておいてから見ると、より映画本編が理解しやすいかもしれません。
本編内では、過去の記憶と現在の記憶を、白黒とカラーのシーンを交互に出すことで表現しています。
カラー部分は若き日のオッペンハイマーの世界。対するモノクロ部分は決定的な出来事が起こった後、自らが何をもたらしたのかを知っている現在の世界。
オッペンハイマーという同一人物の異なる視点によって本編を構成したところに、ノーラン監督のただならぬ手腕を感じます。
このようなノーラン監督ならではのこだわりは細部に光っています。
たとえば、原爆を開発するに至るまでに、何度か核分裂に関する物理学的説明や数式が出てきますが、その都度、核分裂のイメージ映像を挿入して、観客にイメージしやすくしているところに優しさを感じました。
懸念していた日本側の描かれ方ですが、公開を遠慮するほどの表現は見当たらず、実際に日本が原爆が落とされるようなシーンはないため、一定の配慮を感じました。
【オッペンハイマーと原爆をめぐる感想】
さて、ここからは、オッペンハイマーと原爆を巡る問題について、想いを巡らせて行こうと思います。
ノーラン監督が提示したかったのは、この映画を通して、「戦争とはなにか」を皆で議論することだったと思うので、今回、私の方でも考えたことを書いてみます。
多少政治的信条に入る部分は、ご容赦くださいませ。
・恨まれるべきは、原爆を創った科学者か、原爆を行使した政治家か
第二次世界大戦の最後に、人類史上はじめて、原子爆弾が広島と長崎に落とされました。
この「原爆投下」の責任は誰にあり、恨まれるべき相手は誰なのか、という疑問は、今でもしばしば論争になっていると思います。
オッペンハイマー自身も、「私の手は血塗られたように感じる」という言葉を残していますが、原爆開発者というのは、科学的には大いなる成功で、国民的英雄でありながら、一方で原爆投下をした国に大きな悲しみを背負わせる手伝いをした存在です。
ただ、現実には、核兵器の使い方自体はニュートラルなものであり、それをどう使うかは政治家の責任であるといえます。
よって、恨むべきは、最高責任者である大統領、となるのが理にかなっているとは思います。
ただ、「原爆の父」とまで言われたオッペンハイマーが、自分の実績づくりのために兵器の開発に専心した部分はあったのでしょうから、後に本人が自責の念を持つのも仕方がない面はあるのかな、と思います。
・オッペンハイマーはアメリカの「アイヒマン」か?
オッペンハイマー自身は、ただ政府や軍の期待通りに、最新の核兵器を開発しただけの技術者であり、善人でも悪人でもない、という見方もあります。
このようなオッペンハイマーの立ち位置と少し似た人物として、ナチス親衛隊(SS)の高官を務め、ユダヤ人の大量虐殺に関与した「アイヒマン」という人物がいます。
アイヒマンは、ユダヤ人をアウシュビッツの強制収容所に送る責任者であり、数百万のユダヤ人を死に追いやった人物として、戦後にいたるまで「アイヒマン裁判」などで大罪人として裁かれていきます。
ただ、アイヒマン自身が、真面目な人物であり、「上からの命令に忠実に職務を遂行しただけ」という見方もあるのです。
・政治哲学者ハンナ・アーレントの指摘する「悪の凡庸さ」について
前述した「アイヒマン自身は、真面目な人物であり、上からの命令に忠実に職務を遂行しただけ」という見方を主張したのは、政治哲学者のハンナ・アーレント女史です。
ハンナ・アーレントはこの構図を「悪の凡庸さ(Banaliyty of Evil)」という言葉で表現していました。
アイヒマン自身も、裁判でユダヤ人虐殺に対する自身の罪と責任を問われると、「上から命令されたことなので仕方がなかった。自分には選択する余地が無かったのだ。」と言っていたそうです。
つまり、アイヒマンというのは、職務遂行を真面目に行った、普通のおじさん。
ただ、自分のやっている仕事(ユダヤ人をアウシュビッツに送る仕事)が、後々世界史的にも大きく裁かれることになる事件だという認識が薄く、ただただ言われた通りに働いているYESマン。
普通の会社に勤めていれば、上司の命令に忠実な、善良なサラリーマン、という評価で終わっていたかもしれない人物。
そんな人物がたまたまユダヤ人虐殺の道を拓くキーパーソン的立ち位置に存在してしまったのが運の悪さ。
これが、「悪の凡庸さ」といえます。
本当の悪はもちろん、「ユダヤ人虐殺」を計画し、まわりに実行させた政治家側の思想にあります。
その面で、ヒットラーとアイヒマンは同罪に扱うことはできず、最終責任者であった大統領のヒットラーに大きな罪があるのは明白でしょう。
・「ヒトラー✖アイヒマン」と「ルーズベルト✖オッペンハイマー」
「ヒトラー✖アイヒマン」の関係と同じような関係として考えられるのが、
「ルーズベルト✖オッペンハイマー」だと思われます。
確かに、オッペンハイマーはその優秀な頭脳で原爆という人類の歴史を変える死の兵器を完成させてしまいました。
ただ、その兵器の完成を急がせ、実際に日本に投下する、という計画を実行させた責任は、他ならぬ最高責任者のフランクリン・ルーズベルト大統領にあります。
オッペンハイマーを裁くぐらいなら、最終決定者であるルーズベルト大統領の責任も問われる必要があるのではないでしょうか。
ただし、ルーズベルト大統領自身がアメリカに勝利をもたらした人物であり、国民の間からも一定の尊敬を得ている対象であるため、ヒットラーのようには裁けない、というところなのだと思います。
実際には、戦勝国側がルーズベルト、敗戦国側がヒットラーというだけで、ユダヤ人虐殺も、黄色人種の日本であれば原爆を落としても良い、という感覚も、同じく人種差別的考え方であり、大きく非難されてしかるべき論点です。
そうならないのは、やはりアメリカが戦勝国だから。
あのオバマ大統領が広島を訪問した時でさえ、「空から死が降ってきた」などという詩的な表現で原爆を表現し、それに対して何も突っ込まないような日本です。
(空から死は降って来ません。原爆には必ず「落とす」決定をした人がいるはずです)
勝つためには何をしても良いのか。
人としての倫理感を逸脱した行為ではなかったのか。
この辺りは、戦勝国であったとしても、できれば振り返っていただきたい案件だと考えています。
・原爆は行使されるべきだったのか
映画内でも時々議論されている、「原爆は果たして行使されるべきだったのか?」という面での考え方を少し。
元々、オッペンハイマーたちが行っていた「マンハッタン計画」とは、ナチスの核開発に脅威を感じた米国が、ナチス側よりも早く核兵器をもってやろう、という意気込みのもと始めた研究です。
オッペンハイマーとしても、ユダヤ人迫害をしているナチスに核兵器を使わせるよりは、自分たちの国が同レベルかそれ以上の核兵器を持つことが、世界のためになる、と信じての研究だったのだと思います。
ただ、実際には、ナチスはオッペンハイマーたちが原爆を運用化させる前に降参しており、開発中の核兵器は、行き場に困ってしまいました。
既に降参した国に勝つために核兵器開発やその行使をするわけにはいかない。
それでも、アメリカが世界一の核保有国であることを世界中に知らしめる必要がある。
そんな見栄とプライドの結果、落とす必要のなかった日本に白羽の矢が当たったとすれば、本当に許されることではありません。
ナチスという恐怖が去り、その上でさらに、日本に原爆が投下される理由としては、以下のようなポイントが言われていました。
・【日本が原爆を落とされた理由】
①日本は徹底抗戦の構えで、決して降参しないだろう。
戦意を喪失させるぐらいに、徹底的に痛めつけるべきである。
②今回、日本に原爆を落とすことで、世界中がアメリカの核の脅威を知り、今後の戦争における抑止力になるかもしれない。
①について。もし日本側に、5~10万人の人が亡くなるかもしれない原爆投下の予定があると伝えたら、その時点で降参していたかもしれません。
広島・長崎に落とさずとも、戦争は終えられた可能性があると考えると、最後に見せしめのように急いで原爆を行使した政治家の罪は重いのではないでしょうか。
②について。原爆を日本に落とすことで、一時的にアメリカが世界の軍事大国の頂点に登れたとします。
でも、その後に必ず、原爆よりも強力な兵器が人類から発明されていくはずです。
そう考えると束の間のパワーだし、強力な武器開発が収束し、世界が平和になる、ということもありませんね。
オッペンハイマーの主張も同じで、原爆の次に水爆の開発を始めた政府に対し、これ以上協力することはできない、と断っています。
・私たちはどこへ向かうのか?
映画内でも示唆されていますが、核兵器を開発し、水爆を開発した後、私たち人類は一体どこへ向かっていくのでしょうか?
結局は、原爆・水爆よりもさらに高度な大量破壊兵器が開発され、それらを保持している、ということで相手を牽制し合う世界が続くのでしょうか。
それだけならまだしも、広島・長崎のように、たとえ使わなくても良い状況であっても、その兵器の威力を知らしめるために、実際に行使する国が出てこないとは限りません。
好戦的な国であればあるほど、他の国よりも進んでいる兵器を持っているならば、その行使をして、地球のトップに君臨してみたい、という気持ちに駆られるでしょう。
私たち人間一人ひとりの倫理感・良心が勝つのか、権力者の見栄やプライドが勝つのかによっても、人類の未来は変わっていくのかもしれません。
聖書に示されたようなハルマゲドンや、第三次世界大戦が起こりえるような事態になりつつある私たちの時代。
映画『オッペンハイマー』を通して、改めて、戦争とはどうあるべきかを考えるきっかけにしていければ幸いです。
最後までご覧くださり、ありがとうございました🌸
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