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近現代の【やきもの鑑賞】

小代焼中平窯の西川です(^^)


加藤唐九郎氏『やきもの随筆』を主な参考資料とし、近現代の陶磁器鑑賞について、どういった流れがあったかをまとめていきます。


加藤唐九郎氏


また、出川直樹氏『やきもの鑑賞入門』も補助的に使います。

現在、陶磁器を鑑賞する場合、
茶の湯が好きな人は茶道具ばかり、民藝が好きな人は民芸品ばかり、器作家が好きな人は生活工芸ばかりの鑑賞方法や知識しか持っていない場合が多いようです。

専門家と呼ばれるような人々でさえ、木を見て森を見ず状態に陥っている場面に出くわします。

もちろん個人の好みがありますので、個々の好き嫌いがある事、それはそれで良いのですが、歴史の大きな流れを俯瞰してみる機会が少ないように感じるのです。

※因みに私は桃山~江戸初期の茶道具・昭和の茶陶作家・魯山人系列の食器が好きです。


全体の流れを把握することで初めて、個々の鑑賞方法の意義や立ち位置が明確になります。





明治時代の前提


明治期以前は茶道が陶磁器鑑賞に強い影響力を持ち、茶道具として使えるかどうかが陶磁器の価値に直接的に反映されていました。

しかし、明治期は陶磁器に限らず、日本全体が西洋を手本とした近代化・民主化・資本主義化を推し進めた時代です。


当時、欧米へ留学した日本の知識人達は欧米各国の美術館の立派さや、富豪たちが自身のコレクションを惜しみなく公開している様子に刺激されました。

日本に帰ってきた彼らの中から、欧米のように陶磁器(美術品)を積極的に陳列公開しようという機運が高まっていました。


そうした中で、これまでのお茶道具や約束事から離れ、陶磁器を用途と切り離して鑑賞・収集する流れが生まれます。

まず最初に鑑賞陶器の中心となったのは彩壺会でした。



鑑賞陶器


鑑賞陶器を代表するグループとして、彩壺会が誕生します。

この彩壺会の運動から近代的な陶磁器鑑賞が始まり、大正~昭和初期に日本の陶磁器鑑賞が大衆的な広がりを見せることとなります。


陶磁器を使用せずに、鑑賞して芸術的な感銘を受けるという見方は、当時としては最新の陶磁器鑑賞でした。


彩壺会は東京帝国大学(現:東京大学)の関係者による陶磁器研究会が母体となり、そこに実業界の愛陶家が加わって結成されます。

対象としては柿右衛門・色鍋島・古伊万里・古九谷などなど、色絵磁器を中心に、そこへ中国陶磁器を加えた分野が熱心に研究されました。

研究の中心は所謂「上手物」と言われる高級品で、この後の時代に繋がる陶磁器鑑賞の道筋を作りました。

大正の中頃までは色絵磁器は茶道具として使える品に価値がありましたが、その枠を取り払ったのは彩壺会の会長である大河内正敏氏や、国宝保存委員会で官僚であった奥田誠一氏です。


補足ですが、加藤氏は会長・大河内氏の人柄をとても尊敬されていたようでした。

『やきもの随筆』中では大河内氏の実績や人柄に最大限の敬意を払っておられます。

逆に奥田氏については功績を認めているものの、その人柄には否定的であったようです。


奥田氏は官僚の立場から、民間の古美術商を指導し、西洋式の鑑賞方法による最高級の古陶磁を扱う美術商を育成しました。

その中から、国際市場との繋がりを持つ美術商も登場し、奥田氏は東洋陶磁鑑賞界におけるパイオニア的存在となりました。


その財力と政治力をフルに使って、当時の上流階級の人々を相手にしていた奥田氏を脅かす存在として、大正末から柳宗悦氏が登場します。



民藝・柳氏


柳宗悦氏『工芸の道』という著書の中で
「安価な雑器の中にこそ、健康的な正しい美が宿る。」と説きました。

当時、下手物と呼ばれていた雑器を民衆的工藝という意味を込めて『民藝』と命名されます。


さらに柳氏は初期茶人の美意識に注目し
「初期茶人は、雑器の中から名品を発見し、茶道具として使用した。」という主張を展開しました。

当時、この柳氏の発見は陶磁器鑑賞の世界に衝撃を与え、大衆の目が下手物と呼ばれていた雑器に向くきっかけとなりました。


しかし、それと同時期に千利休に代表される侘茶の大成期の様子も、窯跡の発掘、桃山期の茶道具の流通、陶芸家達による技法の再現などを通して目に見えるようになっていきました。

柳氏の「初期茶人は雑器の中から名品を発見した。」という主張は一部では正しいものの、
「よって初期茶人の使った茶道具は全て雑器である。」という内容は誤りであるという事が判明したのです。

初期茶人の美意識は、目の前の茶碗が上手物であるか下手物であるかという、陶磁器の戸籍や育ちには特段の拘りは無く、柳氏の想定以上に自由な美意識で茶道具を選んでいたことが分かってきました。


その後、柳氏は安土桃山時代の陶磁器には距離を置いて興味を示さず、江戸中期から明治初期の下手物を中心に立論するようになりました。


柳氏は自身の宗教的知識や社会主義思想をふんだんに文章へ織り込んだために、民藝理論は数ある陶磁器鑑賞方法の中でも宗教色や政治色の強い、独特の立ち位置を保っています。



小野賢一郎氏


小野賢一郎氏は若くしてジャーナリストとなり、東京日日新聞社会部長やNHK文芸部長を歴任しました。

小野氏は陶器を愛好して作陶を趣味とし、大正時代に『陶器を試みる人へ』という本を出したのを初め、多数の陶器関連の著書を発表されました。


小野氏を一言で表現するならば、
「文章の力で陶磁器鑑賞を一般化した人物」と言えましょう。


小野氏の活動は陶磁器鑑賞の啓蒙と普及に主眼を置き、昭和6年から雑誌『茶わん』を発行して多くの人を刺激し育成していきました。

小野氏の陶磁器鑑賞の特徴として、多くの人々に自由に発言させて、これを繋げていくという方針をとったために、陶磁器鑑賞が真の意味で大衆的なものとなりました。

しかし現代では、小野氏の功績が顧みられることはほぼ皆無と言っていいでしょう。


小野氏自身が、

「ジャーナリズムは花火のようなもので、大きな音をたててはなやかに大空に開き、人をアッといわせて、驚かせ、喜ばせ、それですぐ消えなければいけない。
それがいつまでもあとを引いては、ジャーナリズムとしては価値がない。」


という言葉を加藤氏へ伝えたそうで、小野氏の功績が喧しく言われない今日の状況は小野氏の本望かもしれません。


個人的に調べたところ、新興俳句弾圧事件と小野氏の関りを伺わせる内容を見つけましたが、陶磁器鑑賞とは別問題ですので、ここではその正誤や是非について論じることは留めておきます。



倉橋藤治郎氏


倉橋藤治郎氏は前述の彩壺会・幹事であり、自身で買い集めた古陶磁を大々的にデパートで展示・即売した人物です。

前述の小野氏が文章によって陶磁器鑑賞を大衆のものとしたのに対し、倉橋氏は実践をもって陶磁器鑑賞を普及させました。


それ以前の陶磁器の愛好家や鑑賞家は、仲間内だけでこっそりと古陶磁を売買することが多かったのですが、倉橋氏は当時としては異例のオープンな古陶磁取引をしました。

倉橋氏の出現によって、それまで奥田氏が中心となっていた彩壺会は倉橋氏が常任理事となり、焼き物趣味界が売買の面で近代化を果たすことになります。

「焼き物の鑑賞は実物を買って座右に置くことにより可能になる。」という事を、身をもって実践されました。

倉橋氏は中国、朝鮮、日本のあらゆる分野の古陶磁を集めて展示し、比較的安い値段で販売したことで人気を博しました。


加藤氏と倉橋氏の出会いは昭和4年、加藤氏が瀬戸古窯調査保存会を設けた際に、倉橋氏が応援のために瀬戸へ来て講演会を行ったことがきっかけであったそうです。

加藤氏の文章からは、加藤氏が倉橋氏を高く評価していた様子が伺えます。



食器・魯山人氏


大正12年の関東大震災により東京は壊滅的な被害を受けた後、関西の資本と商業が東京へ進出しました。

食文化もその一つで、京料理や西日本の割烹料理も目に見える形で東京進出を果たします。


その代表的な料亭は星ヶ岡茶寮、稀代の芸術家・北大路魯山人氏の総指揮によるものでした。

星ヶ岡茶寮では料理を中心に据えつつも、食器や室内装飾へも魯山人氏の美意識が遺憾なく発揮されました。

魯山人氏は当初、古陶磁や各地方へ注文した食器を使用していましたが、それだけでは満足できず、北鎌倉に窯場を整備し、自身で作陶するようになりました。

現代でも陶芸家は一人で作陶するイメージが強いですが、魯山人氏は多くの職人を雇って陣頭指揮を執り、日本料理を意識した食器類を年間1万点という驚異的ペースで量産していきます。

現代の和食器作家や日本料理店は大なり小なり、知らず知らずのうちに魯山人氏の影響を受けていると言えましょう。


同時に魯山人氏は鑑賞家として夥しい数の古陶磁や陶片を収集し、自身の参考資料としました。

魯山人氏の陶磁器に対する情熱は『魯山人陶説』という本からも読み取れます。

ただし、魯山人氏は性格的には非常に頑固で気難しい面があり、古陶磁の歴史認識にしても独断的文章が散見されます。

陶磁器の正確な歴史を調べる場合、魯山人氏の文章は上記の内容も織り込み済みで読み進める必要があります。



益田鈍翁氏


益田鈍翁氏は江戸末期にヨーロッパへ渡り、帰国後に大蔵省へ入りました。

後に公務を退いて三井物産を創立して社長となります。


大正3年に実業界を引退すると、その絶大な財力を駆使して天下の名品を買い集め、盛んに茶会を開きました。

所謂「財閥の茶」の中心的人物となります。


それ以前の茶会は形式と約束事に重きを置いていましたが、益田氏の茶会は優れた茶道具を主役とし、いわば陶磁器鑑賞に主眼を置いたという意味で画期的なものでした。

益田氏は茶人・陶芸家・陶磁器愛好家と広く交流し、有望な人々をその交友関係に招き入れては多大な影響を与えました。

使用する事、鑑賞する事で桃山陶芸の再評価に寄与された人物です。


茶陶の名品への熱狂を側から支え、その界隈の鑑賞力を高めた功績は非常に大きなものがあります。



その他の流れ&まとめ


「その他」と一括りにしてしまっては申し訳ないのですが、上記の人々以外で陶磁器鑑賞界に影響を与えた人物を最後に書いておきます。



目利き・青山二郎氏


趣味人・川喜田半泥子氏

彼ら2人は、多くの陶磁器愛好家や陶芸作家を繋ぐ役割を果たしました。



また、学術的な研究の後、作陶生活へと入った小山富士夫氏



人間国宝の制度が始まってからは
富本憲吉氏・荒川豊蔵氏・濱田庄司氏・石黒宗麿氏らが、
日本で初の人間国宝として、それぞれの分野で実制作の現場を牽引されました。



少し後の時代ですが、オブジェ陶を代表する走泥社で中心的役割を果たした八木一夫氏も忘れてはいけません。




さて、今回の記事は以上といたします。

いかがだったでしょうか?

普段の生活では思いを巡らすことの少ない方々ですが、彼らの切り開いた道の上に我々の陶磁器鑑賞や作陶生活が成り立っています。

たまには、歴史を振り返ってみることも、有意義であると考えてこの記事を書いた次第です。



2024年7月13日(土) 西川智成


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