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受容の需要と対話型鑑賞

こんばんは,長濱由成です.

受容の需要.単なる言葉遊びみたいに思えるかもしれないが,これが結構重要だ.人間は生きていくうえでありとあらゆることを思考する.将来はどのようにして生きているか,晩御飯は何を食べようか,好きな人になんと告白しようか,人間が考えるものに限りはない.けれど,その思考には受信者の存在が不可欠だ.人間というのは寂しがりで,やはりどこか自分の考えを友達に聞いてほしかったり,悩みに共感してほしいという感情がある.そのおかげもあって,snsには大量の"共感"を求める喜怒哀楽の投稿が渦巻く.それは人間にとって自然の摂理でなんらおかしい事ではない.

けれど,この受信者というのをあなたは心から考えたことがあるだろうか.この受信者,アートだと鑑賞者とも言うべきその存在は他人との相互作用の中で生き続ける私たちにとって聊か(いささか)重要な問いと存在である.

相手に共感する.「女性は課題解決より共感を求めているのだ」という恋愛うんちくを聞いたことがある人も多く居るだろう.けれど,共感するというのは何も恋愛だけに使えるわけではない.我々は会話をして相手の敵意を感知する上で,この共感を想像以上に活用している.自分の意見に真っ向から反対する人に対しては嫌悪感を示し,共感してくれる人には好意的な印象を受ける.この点では人間はかなり"チョロい"と思うのだが,可愛らしくていいではないか.

さて,あなたは日々相手に共感しているか.これが今日話したい「受容の需要」である.「受容される」という行為は人間の市場価値の中で随分高い位置に存在する.それは時によって資本主義や平等よりも重要な概念であり,物質だ.もちろん私も受け入れられる時は普段の何倍もリラックスして会話できる.自分の考えを堂々と話せるし,受容されればされるほど相手の意見も受容したいと感じるようになる.言い換えるならば,人に受容してほしければ自分からまずは受容することが大切である.まぁ,こんな話は誰だって思いつくし多くの人が書けるはず.

なので,この先を少し考えてみたい.それは「需要の是非」についてだ.

前段で話したように,受容というのは相手の緊張を解き,距離感を近づけるといった良い効果をたくさん持つ.一見買わない手がないほどお得な商品のように思えるが,果たしてその受容は良い事か.その需要に対して思考停止で供給するのは良い事か

私は対話型鑑賞のファシリテーター,進行役になり,かれこれ5カ月ほど取り組んでいる.程度こそ新米だが,先人の意見に揉まれながら日々精進している次第だ.その中で課題となったのが「返答の仕方」である.

例えば,ある鑑賞者が意見を発してくれた際に「なるほど」の一言だけ進行役に返されたらどのように感じるだろうか.先ほどの受容の話にも合ったように,どこか寂しい感情を抱いたりストレスを抱えたりするはずだ.一方で,「なるほど,そうですよね!○○って確かに~」と受け答えするのはどうだろうか.短絡的に見れば,自分に凄く興味を示してくれる人のように感じて好意的な印象をあなたは受けるだろう.けれど,こう考えることもできる.

その鑑賞者の意見と反対の意見を持っている人が次に発言しようとしていた際,目の前で過度な受容が行われたらどうだろうか.自分の意見は間違っているのではないかと自信を無くすだけでなく,私の意見にはきっと賛同してくれないという疑心暗鬼な状態になるに違いない.また,それとは違う第三者視点から見て,別の意見にも進行役が過度な受容を行えば八方美人に見えたり,以前の共感が虚像であったかのように感じるはずだ.

これは進行をしていく上であってはならない事態である.けれど,この塩梅が非常に難しい.もちろん,進行役は適当に相槌を打っているわけでなく,鑑賞者が話しやすいように配慮するためそのような行動を取る.相手の意見の中でどこか一つでも共感できるところがないか隈なく調査し,その中で共感できたポイントを重点的に相手に伝えて感情を和らげる.

本当はこのような意味合いで行っていることも,ファシリテーターの心より外側に伝わることは滅多にない.人間というのは随分と短期的で突発的な情報のみを判断材料とする.それは鑑賞者が悪いわけでも進行役が悪いわけでもなく,仕方のない行為と受け入れるべきだ.

さて,対話型鑑賞の話に戻るが,先ほどの場合進行役はどのように受容するべきだろうか.もちろん鑑賞者と進行役の間には「受容の需要」が存在しており相互の意思疎通によって関係は構築される.それは1時間のような短期的な時間尺度であってもだ.

要するに,受容することというのは私たちの中で実に難解な課題なのだ.ただ受容することも相手からすれば功績なのだけれど,適当に生き続けるとどこかでそのしわ寄せがくることは確実.そう簡単に解の出せる話ではない.

けれど,確実に言えることは「受容の需要を自覚して会話に臨むと良い」ということだ.自分が良いと思えることは全力で受け入れたらいいだろうし,全く共感できないことには静かに首をかしげて退散するのが良いと思う.もちろん,受容はナマモノだから扱いが非常に難しい.その難解さを自覚しつつ日々の営みに挑むだけであなたの心理状況と言葉選びは大きく変わるのではないだろうか.

実際,私も対話型鑑賞のファシリテーターを始めてこの問題に直面し,頭を悩ませた.もちろん答えは出せていない.けれど,日々の生活の中で過度に共感しない.自分の感情を大切にする.時には"こころ"の共感より保守の方が大事な時だってある.良い関係性を構築するのは必要不可欠だけれど,あなたが無理をする必要はない.以前の私に投げかけたい言葉だ.(笑)

そして,出力しすぎない.最近私はよく「出力しすぎない計算機」と自身含め人間の目指す形だと思っているのだけれど,思考はそれに近い.中途半端という言葉はどこか人を極端な道へ突き進めようとする引力を持っているけれど,実際には中途半端で止まるべきことも多くある.それは相槌の数かもしれないし,日々の会話の数かもしれないし,質問の数かもしれない.どれも日常の一部として溶け込み当たり前のように行う営みだが,その一挙手一投足で人間の印象や感情や癖は大きく変化するはずだ.私も日々それを実感している.

さて,出力しすぎないように今日はこの辺で終わろうと思う

では,また明日.


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