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僕は「ぼく」として生きていない

久しぶりに外に出た.といっても,たかが1日ほど出ていなかっただけなのだけれど.玄関の扉を開けて外に出るとひんやりとした空気が襲う.だが,その冷たさは決してネガティブなものではなく,むしろ生を感じさせるような穏やかなものだった.自転車に乗り買い物に向かう.普段通る何気ない道と何気ない風景.既に夜中だからはっきりとは見えないけれどぽつぽつと光る無数の部屋がどこか人との繋がりを感じさせる.家に籠っていると外との繋がりが完全に失われ,世界には自分以外誰もいないのではという感情になる.このような状況下で友達にLINEをしても大抵期待しているような返事が返ってこないという不気味なあるあるも付け加えておく.

ここ数年自分から人に会わない.というより,いつからか私は人と会うことに対してさほどやる気を持てなくなった.私の事をコミュ力お化けだと思ってくれている人たちからすれば非常に意外かもしれないが,私は基本的に誰かと群れていることはほとんどないし遊ぶような関係値の友達も実は少数しかいない.というか,そもそも小学校などの時から既に一匹狼の節はあったような気がする.どこか世の中に違和感を持ち,自分より身分の高い大人に向かって睨みつけるような毎日を今日という日まで送り続けている.俗に言う変人,変わり者というやつである.

そんな変わり者の私を好いてくれる人が時々現れる.もちろん確率は低いのだけれど,LikeかLoveの感情を持ってくれる希少な,ある意味で変わり者な人が稀に居る.その人たちからしても私の存在は異質で,異常な過去の経験と常人じゃない態度と,策略なのか単なる愚か者なのか分からない理路整然としている風の生活.どれもこれも異質であろう.ただ,自分の中では実はあまり異質だとは思っていない.むしろ自分の基準値が基本的にエラーなので,人と価値観が合わない.また,感覚は比較的過敏な方だから程度の低い怒りや悲しみにも強く反応してしまうし,ドラマや映画やアニメの喜怒哀楽のシーンは耐えられないことが多い.けれど,そのようなシーンを見ても涙等は一切出てこないので表に感情が出てこず,周囲からすれば全く感情の読めないサイボーグと化すのがいつもの光景である.

今日は珍しく私小説のように書いている.別に理由はなく単にそういう気分だ.実を言うと,私は相当人格が多いんじゃないかとモヤモヤしている.メンタルが異常に弱い「ぼく」という存在もあれば,大人に向かってガンを飛ばす怖いものなしの「おれ」も居る.人に対して異常に優しくなる「わたし」という奴もいる.もちろんこれらは単なる気分の問題だろうと言われるかもしれないが,それだけでは少し説明がきかないような節がある.この文を友達に見られるかと思うと少し,いやだいぶ恥ずかしいのだが2023年の目標は「正直に,素直に生きる」なので良しとする.こうやって自分で納得しないと生きていけない.

さて,先ほどの人格の話に戻るがおそらく私は毎日何か自己のモデルに憑依して生きていて本当の意味での「わたし」と生活している時間が極端に短い.だから,周囲から見れば何を考えているか分からない.まぁ,当たり前だ.だって,目の前にいる「長濱由成」という対象物の特徴,姿,癖などが毎日もしくは毎秒変化しているとすればそれは自然の進化を凌駕しデジタルネイチャーと移り変わっていく.昨日まで蝶だった生物が明日にはゴリラになっている.元来の自然にはないその変化に殆どの人は対応できないので,自然な流れとして「長濱理解不能」という解が浮かび上がってくるのも無理はない.この話を整理すると,自分の中に世界観や大きな目標がないこともどこか理解できる.毎日生きている像が違うのだから,そりゃ生きている大義も違えばやりたいことも違えば,理想の未来像を変わってくる.うん,なんか納得してきた.調子が良いからこのまま書き進める.

ここまでの話をきちんと聞いてくださった皆様なら分かるだろうが,総合的に長濱という男はある意味で人間らしくある意味で人間らしくない.人生とは何か,自分とは何かと葛藤する様はまさしく人間らしく悶々とするその姿は非常に人間味溢れるものだと個人的に思っている.けれど,人格が変わったり毎日発言が変わるのはある意味で人間らしくない.昨日の私と今日の私で全く様子が違うというのが実は僕の場合結構多い.よく言うと修正が早く,悪く言うと過去を一瞬で捨てすぎだ.

以前,対話型鑑賞のファシリテーターを2日連続で行ったことがあった.1日目は1言で表すと大失敗.はっきり言って「何も起きなかった」回であった.その後の反省会で改善点を洗い出し2日目に備えた.その結果,2日目は昨日との空気感と全く違った素敵な鑑賞会となった.正直,周囲の人にはその修正の速さに驚かれたのだが私としては実は結構当たり前の事だった.

別にこの話は自慢しているわけではなくて,昔から「切り捨てる」能力が強いのでダメな点は一瞬で切って改善に持っていっていた.なので,そのスピード感で常に考えてしまうから人にもその速さでの改善をつい求めてしまう.ただ,その気持ちは「相手を舐めていない」ということであってその人がどれくらい早く変われるかというその能力を信じているのだ.その結果,周囲を困らせ「あいつはよく理解できない」と罵られて終わるケースが多いのだ.けれど,自身の実体験を思い返すとそこまで人は簡単に変われないという事も少しずつではあるが分かってきているつもりだ.時間という大きなコーティングは必要だし,そんな簡単に変われたら人間困らないというのもなんとなく理解してきているつもりである.

このようなことを踏まえると,やはり僕は「ぼく」として生きていない.修正の速さはどう考えても元来の自分として生きている人の速さではない.変装をするルパン三世やベルモットのように,常に架空の誰かになりすまして生きている.ちなみに,私のnoteを全て読んでもらえるとなんとなくその不思議なズレや違和感に気づけると思うので良ければ目を通してみてほしい.異常に周囲を煽る僕も居れば完全に弱っている時のぼくもあるので非常に面白いと思う.個人的にnoteは皆を鼓舞する存在で留めておくはずだったが気づけば自己開示の場として使っているのが興味深い.これからも長濱の自省の場として温かく迎え入れてほしい.

さて,ご飯でも食べてくる.では,また.

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