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陶芸家が壺を割るように,昔の記事に嫌気が差してくる

おはようございます,長濱由成です.

最近自分の記事を読み直す機会が増えてきた.以前考えていたことと現在を比較し自己内省の様子を探るだけでなく,ファクトチェックや校閲の役割も同時に担っている.多くは記録として穏やかな目で見ることができる.しかし,過去記事に対しては悶々とすることも多い.特に言い回しや記述の仕方については頻繁に目に付く.

私は対話型鑑賞をファシリテーターとして,そして市井の鑑賞者としてこの5か月間真剣に向きあってきた.本気を出しても尚,挫折の連続.人生で味わったことのない経験は私を強くしてくれた.同時に,言葉ひとつひとつの取捨選択や相手を思いやる表現の連鎖についても気にするようになった.細部の表現が気になると当然アプトプットの量が減る.けれど,今まで結論を急ごうとしていた私からすればむしろ丁度良い

出力しすぎない計算機」,最近の私の造語のひとつだ.単におしゃべりの量を減らすという意味だけでなく,結論を急がないという自戒がこの語には含まれている.世の中の事象と言うのは往々にして結論を出せないものがある.環境問題,紛争,貧富の格差,食糧難,資本主義社会,どの一部を切り取っても課題は五万とある.また,これらの問題を難解にするのは人間社会の複雑性,地球環境の不気味さ,人間の私利私欲が渦巻く混沌とした世界など多くの要因(因子)が混在していることに由来する

例えば,ここで「発展途上国への支援の是非」について考えるとしよう.一見清らかな行いのように見える支援だが,果たして本当に善行なのだろうか.この時に必要なのが「出力しすぎない計算機」の概念だ.結論を急がず,一度多角的に物事を見るとしよう.以下で,是非について議論する実例を見せる.

発展途上国への支援が善い行いだと考えるあなたに質問だ.Aという国に支援を行い,結果として100人の命を救った.けれど,その100人は後にあなたの国の人々を90人殺した(例:デモやテロによって).この時,あなたの支援は正しかっただろうか.おそらく「正しい」と自信を持って言える人は少ないだろう.

では,Aという国の命を100人救った結果,Bという国の人々が90人失われた(A国の人々によって)としたらどう考えるだろうか.あなたが行った行為はAの国民の命を100人救ったというだけで,直接的なB国に対する非はない.けれど,ここでも自信を持って「私は善い行いをした」と明言することはこれまた難しい

仮に善いと明言できるならば,その人は命を絶対量として,大きな数字の増減として見ていることが分かる.人口増加的な思考だ.この思考にも良し悪しはなく,ひとつの見方として十分に受け入れられるべきだ.また,例1と例2において結論が変わる者も居るだろう.その人は自身のパーソナルスペースが国家という単位で見ている可能性もある.

発展途上国への支援などを将来の夢とする人々は日本にも多数存在する.その夢は煌びやかで高貴で尊い行いとして,尊敬の眼差しで見られることも少なくない.時代性も伴って,SDGsなどに取り組む人を多種多様に取材しているメディアの姿があることも事実だ.けれど,少し立ち止まって考えてほしい.先ほどの発展途上国への支援の例のように,あなたがする救護は往々にして必要でない場合,むしろ周囲に悪影響を及ぼす可能性があることを認識している人は果たしてどの程度居るだろうか.その可能性を考慮した上でも尚,その道に進むという人に対しては,私は全力で応援するし肯定する.けれど,検証や推定をせず無鉄砲で突撃することは被害を増やしかねないという視点も重要であるということを認識してほしい.(*JICAなどの活動を批判しているわけでは一切ないことを明記しておく.)

物事に何らかの結論を出すという行為は我々の想像する何倍も難解だ.私が筆者として過去の記事に悩んだとしても,その表現をむしろ好意的に受け取る読者が居る.とすると,校閲を入れ加筆修正を加えることは彼らにとって善い行いと言えるのか.けれど,過去記事の表現のままでは誰かを傷つけてしまうかもしれない.葛藤の狭間から抜け出せない「ニンゲン」という生き物はどこか不合理で,どこか愛くるしい.人間味が滲み出る要因のひとつにはこの葛藤の狭間の影響があるだろう.

また,1人の筆者として難解な表現にするべきか,平易な言い回しに落とし込むべきか悩む.哲学的な文章は散文・詩的に書かれ,学術的な文脈は堅苦しく一般人の頭を悩ませる言い回しを多数使用する.それは単なる学術文脈の文化というだけでなく,その表現が適切で最も情報量を詰め込める文体だからだ.私のnoteも同様で,一文字にどの程度の「重さ」と「威力」を込められるかが勝負となってくる.毎日3000文字程度書くのだが,この3000文字によって人生の数万という時間が変わる可能性がある.「長濱さんのnoteを読んだ結果,人生が悪天になりました…」と叫ばれるのは,筆者として本望ではないので一定程度気にする必要がある.これは対話型鑑賞のファシリテーターを行う際に私が学んだ姿勢の一つだ.

ワークショップ,イベントなどが世の中では毎日数十件から数百件開催されている.すべてに主催者が存在し,進行役やスタッフも必ず居る.けれど,そのイベントに自分が命を懸けて取り組んでいるかと聞かれれば,多くの人は自身を失くすに違いない.その催しの一挙手一投足で,誰かの人生が左右されたりあなた自身の生涯が決まる可能性がある.この事実を目の当たりにした後,日々の営みに「出力しすぎない計算機」の概念を持ち込まないのはどこかナンセンスだ

あなたがが問うひとつの質問,疑問,普遍的な応答,目線,服装,姿勢など人間は多くの情報を同時に吸収して情報の判断や統制を行う.その中で,あなたの表現は適切だろうか.この疑問を一度抱くともう二度と帰ってこれない葛藤の狭間に迷い込むだろう.「けれど,思考の樹海に迷い込むことは間違いなくあなたを成長させる因子のひとつとなるだろう.」と,無責任なことは到底言えないが,一度自ら己の手で彷徨ってみるのも悪くないだろう

「書く」という行為は面白い.たった4カ月前と今とで文章の表現技法や文体,思想などあらゆる面で変化している.その記録として過去の記事を残すことはある種の日記に近いものがある.当然,インターネットという晒し物の世界に身を投じているわけだから,何もリスクがないわけではない.けれど,どこか自分の中で「過去」の記事を「過去」のままとして残すのも悪くはないなと感じてきた.何より,出したくなかった記事を書いた覚えは一度もない.もう少し自身の手に自信を,そして未来に勇気を持つように日々営んでいこうと思う.

こうして結論付けたものの,数日後には悩むから人間はやめられない….

長濱


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