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n=1で人と対話する#統計学と対人理解

こんばんは,長濱由成(Yoshinari.Nagahama)です.

統計学(statistics)は面白い.少ない標本(無作為に取ってきたデータの塊)から本来の姿(母集団)を予測する.この未来予測感と開けてはいけないパンドラの箱を容赦なく垣間見ようとする統計学者の精神力は私の中で結構ツボである.

世の中のすべてがデータ化し,すべてのものには因果や相関が存在することが可視化されつつある.そして,統計を武器に世の中を良くない方向へ持ち込もうとする人も一定数居る.どんな素晴らしいテクノロジーも悪用するというのが何とも人間らしい振る舞いである.

しかし,よくよく考えると「すべてがデータ化している」というのは今に始まった話ではない.占いや風水は大規模な統計に基づく心理分析だし,『孫子の兵法』などは過去の戦いの歴史から学ぶことのできるポイントをまとめた戦略書である.そして,我々が最も古くから統計を活用している場がある.それは「対人理解」である.

我々人類はある相手を理解する際,必ず過去のデータを判断材料の一部として活用している.タトゥーの入った人が近づけば「怖そうだ」と判断し,着物を着て正座をしている女性が居れば「おしとやかだな」と認識する.度合いに個人差はあれど,過去の経験・知識・先入観などから人を判断しているのはまず間違いないことだ.これは明らかに統計学の手法を実社会で活用している最たる例である.目の前に存在する相手を標本としてその特徴から傾向を探り,既に所持している標準正規分布と照らし合わせる.予測ではなく照らし合わせになるのが少し違う点なのだが,本記事では割愛する.

一方で,統計学は誤りも大きい.世の中のデータは確かに因果や相関を持っているがあるデータとあなたの所持するデータが繋がる可能性は極めて少ない.例として疑似相関というものを紹介する.知っている人は先に進んでもらって構わない.


疑似相関とは本来関係のないデータを相関関係にあると結論付けてしまい,統計手法として正しくない結果を出力することである.要するに間違いだ.以下に有名な例を載せておく.

年間におけるアイスクリームの売上が増えれば増えるほど水難事故の件数が増えた.ここには正の相関関係があることが分かるので,水難事故を抑止するため「アイスクリーム販売の中止」を呼びかけた.

しかし,実際は気温が上がることで海面が上昇し水難事故が増えていた.つまり,関係していたのは「気温」という第三の因子でありアイスクリームの販売量に関係はなかった.

太字で書いているのが今回の例に登場する3つの例である.この中で本当の相関関係にあったのは水難事故の件数と気温の上昇であり,アイスクリームの売り上げは単なる別の要因にすぎない.今回の例では明らかにこじつけのような雰囲気があるため疑似相関だと見破ることができるが,実社会では正誤を確認できないような疑似相関が膨大に存在するというのが現状だ.


さて,話題を対人理解に戻す.相手の特徴量(因子)から様々な相手の本音や深層心理を知ろうとするのは人間の営みとして不偏だが,実際に成功するパターンは極めて少ない.たとえ,本来非常に分かりやすい対象者(筆者もその一人)であったとしても対話者の持っている標準正規分布が異なれば別の人物像として解釈される.そして,このズレが一般的には「他人から見た自分」と「自分から見た自分」の乖離を生み出している.この乖離が増えれば増えるほど生活は困難となり,他者から見た人物像に近づこうと努力せざるを得なくなってしまう.

例えば,私の場合は非常に完璧主義者で常に動いているような真面目な人という認識が皆さんの中にあるだろうが,実際はそんなことはない.ダラダラしていることも多いし,抜けている場面も多々ある.失敗も人一倍している.noteにもその吐露を載せまくっている.けれど,それは自分の見せ方や日々の行いからは伝わらない.この現状に対して私の友人が良い意見を持っていたので今日はそれを共有して終わりたい.

彼女(友人)はなぜか私の事を手に取るように理解している.正直未だに信じられない部分も多いのだが,本人曰く「長濱はわかりやすい」そうだ.そんな彼女に「どうやってそれだけの理解をしているの?」と尋ねたら,「その人を見ているからだよ」と何とも哲学的な返しをされた.すると,彼女は「その人を,その人自身から受け取る情報で基本的に判断するから先入観やイメージはあまり含まれない」と教えてくれた.数理的に解釈すると,対象者を常にn=1の概念で観察・理解し自分の所持する統計情報に当てはめない.こうすることで疑似相関や固定観念から離脱し,その人自身とひたすらに向き合うことができると彼女は言ったのだ.

正直同年代の人とは思えないような大人びた回答だったが,確かにその考えは一理ある.また,統計的に落とし込まないことで相手の欠点を見過ぎないことも可能であるという.統計的な人物像を軸に相手を理解すると,その軸と対象者本人の特徴にズレが生じるのは当たり前だ.そのズレは対象者自身にとっては何の違和感でもないのだが,統計的にのみコミュニケーションを進めるとそのズレは外れ値(エラー)として処理され,後に「欠点」として脳に理解される場合が多い.この「欠点」は本来存在しなかった負の値であり,対人理解において本来必要のないデータセットである.

彼女の対人理解の手法は私の脳裏には存在しえなかった方法で,相手を「よく,そして良く(more and better)」観察するという興味深い話だった.今日はそんな彼女の意見を少しばかり世に公開出来て私自身良い回だったと思う.締め方が分からないからこのまま緩く締めるとする.笑

では,また.


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