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【ペライチ小説】_『娘帰る』_29枚目【完】

 お母さんのところに帰ろう。いますぐ帰ろう。もはや手遅れかもしれなかったが、万が一、間に合うのであれば、正せる限りを正しておく義務がわたしにはあった。

 そうと決まれば忙しかった。なにせ久方ぶりの帰還だったので、事前に一言、連絡を入れた方がいいだろうかとか、むしろ突然行って驚かせるべきではないかとか、果たしてお母さんは喜んでくれるだろうかとか、なにかにつけて悩ましかった。同時に、なんだかんだで行ってしまえば、こんな時間だし、追い返されはしないだろうと楽天的な考えが浮かんでこないこともなかった。あんなにお母さんを避けていたのに嘘みたいにテンションが上がっていた。その証拠に、母親について思うとき、わたしは心の中でも「お母さん」と呼ぶようになっていた。

 ああ。数年ぶりの実家。ああ。懐かしの我が家。一時間も経たずして、わたしはそこでお母さんと再会するのだ。LINEでやり取りすることはあったにせよ、長いこと、直接は顔を合わせていなかったので、それなりにドキドキした。念のため、イメージトレーニングをあれこれ重ねた。まもなく、緊張が全身を巡り、喉の奥から乾いたものが這い上がってきた。途端、盛大に咳き込んでしまった。

 場違いな音にいくつもの視線が集まった。恥ずかしかった。消えてしまいたかった。できるだけ身体を小さくし、目立たないように努めたが、あまり意味はなさそうだった。せっかく目指す場所ができたというのにこれではどこへも行けそうになかった。

 ところが、そんなわたしを応援するかのように、周囲の人混みからも乾いた咳の音がいくつもあがり、たちまち、わたしの失態は霞んでしまった。どうやらおばあちゃんに限らず、巷では風邪がめちゃくちゃ流行っているらしい。すぐさまあたりはゲホゲホ騒がしくなってきた。

 咳の大群に後押しされて、わたしは駅へ通じる信号を急いで渡った。足早に改札を駆け抜け、電光掲示板を見上げてみれば、ちょうど発車時刻になんなんとしていた。気合を入れ、ホームへと続く階段を一段飛ばしで上り、帰宅ラッシュの老若男女が密集している山手線に乗り遅れまいと決死千万飛び込んだ。

 プッシュー。ゼロコンマいくつかの差でどうにかこうにか間に合った。ギリギリセーフ。ホッと一息ついたのだけど、唾が変なところに入ったらしく、またしても咳が止まらなくなってしまった。密接な距離に佇む人たちに申し訳ないやら、後ろめたいやら、肩身がひたすら狭かった。胃もシクシク痛くなってきた。こんなことなら、いっそ、乗り遅れた方がよかったのかもしれない。そんな後悔が頭をよぎった。しかし、今回も、遠くの方からゴホンゴホン、救いの音色が聞こえてきた。ありがたかった。咳をしているのはわたし一人じゃないようだった。その事実ひとつで罪の意識は綺麗さっぱり薄らいでいった。

 まもなく、あちこちでンッンッとか、アッアッとか、頼もしい音が悶え出した。そして、その連鎖は加速度的に広がって、四方八方、種々様々、色とりどりの咳が鳴り響いた。車内はすっかりお祭り騒ぎ、あっという間の出来事だった。

 というわけで、マジョリティと化した安心感に包まれながら、わたしも思う存分咳をした。



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