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【映画感想文】この人生を何度繰り返そうとも作り続けるしかなかったという「永劫回帰」がクリエイターを動かしている - 『ルックバック』監督: 押山清高

 最近、YouTubeの番組で宮崎駿監督がCHAGE&ASKAの依頼で使ったライブ用アニメ『On Your Mark』が話題になっていた。奇跡のように素晴らしいプロモーションビデオの例として挙げられていた。

 え? そんな凄かったっけ?

 むかし、ジブリのショートショートが収録されているDVDで見たことがある。たしかに不思議な内容ではあったけれど、なにを言いたい作品なのか、当時のわたしにはよくわからなかった。

 セリフのないアニメだったけど、舞台は大気汚染が進んだ未来の日本で、人々は地下都市で暮らしている。CHAGE&ASKA扮する二人の警察が新興宗教制圧に参加した際、天使の羽を持つ少女を発見。政府がなんらかの実験体として連れ去ってしまった彼女を救出するため、奮闘するCHAGE&ASKA。二人は少女を人間が生きていけない外の世界に送り届け、静かに息を引き取っていく。みたいな感じだった。

 ただ、なぜか同じシーンが何回か繰り返されるなど、意図の掴みきれない演出が多々あって、わたしとしてはよくわからない作品だなぁという感想で止まっていた。

 だから、なぜ絶賛されているのか素直に興味が湧いた。

 聞けば、岡田斗司夫さんの考察がとてつもないらしく、『On Your Mark』を6段構造で分析している動画とを履修することが必須らしい。なるほど、それはチェックしていなかったので押さえなければと検索したら、一部がYouTubeにアップされていた。

 かなり長い動画なんだけど、岡田斗司夫さん得意の話芸で一気に見てしまった。

 あまりに断言が多いので、すべてを信じ切ってしまったらヤバいような気はしつつ、鋭い視点で一回見ただけでは気がつかないポイントを次から次へと教えてくれて、めちゃくちゃ面白かった。課金して、全部を見るか迷っている。

 特に注目すべきはわたしが混乱した繰り返しのシーンについて、宮崎駿監督がコンテにメモで「永劫回帰始まる」と書いているという指摘にはハッとさせられた。

(あと車が空を飛ぶシーンについて、「根性で飛ぶ!」と書いてあるらしいのだが、それもまた素晴らしかった笑)

 永劫回帰というのはニーチェの思想であり、人生は一回限りではなく、同じ経験を何度も繰り返しているという考え方だ。

 通常の人生観だと始まりと終わりがあるので、目標に向かって頑張るということが成り立つ。ところが永劫回帰の場合、成功しようが失敗しようが、すべては決まっていることとして無限に繰り返されるわけなので、ひとつひとつの努力に意味はなくなる。

 そのため、常人であれば永劫回帰に絶望するのだけれど、ニーチェ曰く、超人はその繰り返しを引き受け、無意味さを肯定し、そこに喜びを見出すのだと主張した。たぶん。恐らく。

 一応、永劫回帰の考え方が出てくる『ツァラトゥストラかく語りき』は聖書のパロディ小説なので、諸々、極端に書かれているのだけど、永劫回帰はあらゆる物事が大小を問わず繰り返されるという説明がされていた。

 正直、そこまで厳密に繰り返されてしまうと絶望するしかないだろって感じるし、超人なんて不可能だろうって気がしてしまう。

 とはいえ、ニーチェが言わんとした、この人生が何度繰り返されとも同じことをするしかないって感覚は後世の人生観に大きな影響を与えた。

 原液のまま摂取するのはあまりに濃厚過ぎるので、少しずつ、永劫回帰の解釈は緩んでいった。繰り返される対象を一部に限定するなどして、わたしたちが想像しやすい思想へと変わってきた。

 例えば、この人生を何度繰り返しても同じ人と結婚するだろうとか。同じ仕事を選ぶだろうとか。同じ場所で暮らすだろうとか。

 あるいは、なにをどう試みても結末が変わらないという発想から、創作の世界においてはタイムループものというジャンルが誕生した。フィクションで擬似的に永劫回帰を体験する小説や映画は未だに根強い人気を誇っている。

 岡田斗司夫さんの解釈としては『On Your Mark』という6分48秒の短いアニメの中で、CHAGE&ASKAは人生を何度も繰り返していて、その都度、少しずつ異なる道を歩むのだけど、必ず、少女を救おうという結末に向かってしまうのだという。

 そのことを単純に捉えるならば、諦めずに繰り返しチャレンジを続けていけば、いつかは結末を変えることができるというポジティブなお話になるだろう。でも、宮崎駿はその先を描こうとした。クリエイターの中には無限のストーリーが存在するのだけれど、これを作り出すという結末だけは決まっていて、あとはどの展開を選ぶかだけの問題だというのだ。

 もっと言えば、どの展開も本当なのである。

 複数の結末があるとき、普通、我々はそれぞれの終わり方を比較してしまう。ゲームであれば、ノーマルエンドやバッドエンド、トゥルーエンドと名付けるような感じで。

 まるで人生という道程には正解と間違いがあるかのように考えてしまう。家父長制の家を抜け出し、自分の人生を取り戻すという発想などもこの考え方に基づいている。若者が親のレールを外れてやりたいことをやろうとするのも同様だ。

 しかし、本来、そこに差異はない。いくつものストーリーが並行して存在しているように感じるのは人生を客観視できるという錯覚に過ぎず、その人生を生きている主観としてのわたしにとって、「そうなった」という結末以外あり得ないのだから。

 このことを突き詰めていくと、あらゆる展開が考えられたとしても、物語の形を成した瞬間、それは可能性からひとつの現実へと姿を変えてしまう。

 羽のついた少女を救ったCHAGE&ASKAも、救えなかったCHAGE&ASKAも、そもそもそんな少女とは出会わなかったCHAGE&ASKAも、すべて同等に本当なのである。もっと言えば、そんなアニメを前にコンサート会場で歌うCHAGE&ASKAも本当なのである。

 これらを全肯定することが宮崎駿にとっての永劫回帰なんだと岡田斗司夫さんは言っていた。 

 正直、ここまでくると本来の永劫回帰からあまりに離れ過ぎているし、宮崎駿監督がそんな風に考えているかは疑わしくなってくるけれど、それはそれとして多分に納得させられた。

 少なくとも、宮崎駿監督がそれだけ物語の展開に悩みまくり、ありとあらゆる可能性を考慮した上で、なんならアニメを作る必要があるのかという根底すらひっくり返す人なのは間違いないだろう。それでも映画を作り続けている姿に「永劫回帰」を引き受ける超人的凄さをわたしも感じる。

 たぶん、宮崎駿監督はその人生を何度繰り返そうともアニメを作り続けるしかないんだろうなぁと思う。それぐらい楽しそうに、苦しそうに絵を描き続けているように見える。

 このことを思ったとき、先日、観てきた映画『ルックバック』の解像度が上がった気がした。

 漫画を描くことでつながった二人の少女。でも、漫画を描くことで二人は離れ離れになってしまう。

「こんなことなら、あのとき、漫画なんて描かなかればよかった……」

 主人公の藤野は自らの運命を呪わずにはいられない。これまでのすべてを否定せずにはいられない。

 それでも、描くしかなかったのだと「永劫回帰」を引き受けたとき、はじめて描き続けることがができる。いや、そうじゃない。「永劫回帰」を引き受けたからこそ、藤野は漫画を描き始めることができたのだ。

 漫画でも音楽でも小説でも、そんなことしてなんの意味があるのかと問われたら、困ってしまう。

 そりゃ、屁理屈をこねさえすれば、政治経済を絡めたり、コミュニケーションの重要性を訴えたり、暇をつぶすことの有意義さを示したり、いくらだって言えないことはないだろう。

 しかし、いざ大きな事件や戦争、災害を目の前にすると、その無力さは浮き彫りになる。役に立たないどころか、不謹慎と罵られ、世間を不快にさせてしまう恐れもある。

 実際問題、作らなきゃいけない作品なんて、この世にひとつもありはしない。そんなものがなくたって人間は生きていけるし、なんなら、そんなものを作ったせいで亡くなる命があるかもしれない。

 そういう一切合切を踏まえたとき、普通、人はものづくりをやめてしまう。だって、作る意味なんてないんだもの。

 みんな、それはわかっている。最初はどんなに楽しかったとしても、作り続けることが苦しいのはそのためなのだ。本質的には誰からも求められていないという現実にいつかは必ず辿り着いてしまうから。

 それでも、この人生を何度繰り返そうとも作り続けるしかなかったという「永劫回帰」がすべてのクリエイターを動かしている。

 いいとか悪いとか、意味があるとかないとか、成功するとかしないとか。その先の次元にいるのだ。作り続けることができる超人たちは。




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