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【料理エッセイ】とんかつとFX

 地元のとんかつ屋さんが凄かった。住宅街に佇む民家のような店舗でひっそり、背中の曲がったおじいさんが職人技を発揮していた。カリッ、サクッ、ジュワッの模範解答みたいな揚げ具合。幸せな美味しさだった。

 小学生の頃、両親に連れて行ってもらったときの感動は忘れられない。漫画『美味しんぼ』に「いいかい学生さん、トンカツをな、トンカツをいつでも食えるくらいになりなよ。それが、人間偉過ぎもしない貧乏過ぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ」という名言があるけれど、わたしも幼心にとんかつを好きに食べられる大人になりたいと強く思った。

 だから、中学生になると同時に、そのお店に通い始めた。お小遣いを貯め、月に一度の贅沢として、一人でこっそり食べに行った。おじいさんとも仲良くなって、たまにサービスでヒレカツをつけてもらったりもした。まかないのカレーを食べさせてもらったこともある。本当にありがたかった。

 高校は電車通学だったので、自然、地元で過ごす時間は減ってしまった。それでも、各季節、一度は顔を出し続けた。大学に進学するとさらに距離はできてしまったが、ゴールデンウィークやお盆、年末年始で帰省するたび、お土産片手に足を運んだ。

 二十歳になった年のこと。ある日、厨房に、見知らぬ男性が立っていたので驚いた。四十代半ばだろうか。角刈りに痩せ型、不機嫌そうな顔をしていた。

 聞けば、息子さんなんだとか。おじいさんも年齢が年齢なので、そろそろ跡継ぎについて真剣に考えているらしく、「だったら俺が」と名乗り出てくれたらしい。

「へー。よかったですね」

「まあ、なんとかね」

 おじいさんは嬉しそうだった。

「始めたばかりだし、まだまだ未熟なんだけど、もし、よかったらこいつが揚げたやつ、食べてもらってもいいかな。お代は要らないからさ。感想を言ってやってよ」

 そう頼まれて、何切れか、味見させてもらった。なるほど、素材はいいから美味しいは美味しいけれど、いつものものとは全然違う。きっと、そのことが表情に出てしまったのだろう。おじいさんは厳しい口調で、

「とんかつっていうのは目で揚げたんじゃダメなんだ。耳で揚げなきゃ。バチバチって音が落ち着いて、高温に変わる直前、タイミングよく出してやらなきゃいけねえ。それ以上やると水分が抜け切り、衣が油を吸ってベチャベチャになっちまう。あとは余熱でも火が入るってことを忘れるなよ。お客さんの口に入る瞬間から逆算しろっていつも言ってるだろ」

 と、わたしの方を向きながら、息子さんに対するアドバイスを語り出した。正直、この時点で二人の関係がうまくいくのか、疑問ではあった。

 その後も何度か訪ねたけれど、おじいさんと息子さんのピリピリ具合は増すばかり。店内の空気は明らかに悪くなっていた。ただ、修行はうまくいっているようで、息子さんのとんかつは確実に美味しくなっていた。

「え。これはもう、跡を継いでもらっても大丈夫なんじゃないですか?」

 あるとき、わたしは怒られる覚悟で言ってみた。おじいさんは「いやいや、まだまだ」と答えつつ、

「ただ、そろそろ任せようとは思ってんだ。俺も腰が限界でさ。実際、夜は最近、あいつ一人で営業しているからね。一応、苦情は来てないし、なんとかなってはいるみたいだよ」

 と、わかりやすくニヤついていた。

 ゆえに、その半年後、お店の扉にA4のペライチが貼られ、閉店のお知らせと書いてあるのを見たときの衝撃と言ったら。とてもじゃないけど信じられなかった。

 案の定、二人の間で折り合いがつかなかったのだろうか。でも、あんなに美味しいとんかつが揚げられるようになっていたんだし、頑張ればいいのに。いや、これはよその家庭の話だ。そう単純でもないのだろう。ああ、おじいさんは元気でやっているのだろうか……。

 いろいろと心配で居ても立っても居られなかった。しかし、わたしはあくまで客の一人、お店がなくなったら連絡手段はなにもなし。あとは母に地元のゴシップ情報を確認するぐらいしか方法は残されていなかった。そして、そんな頼みの綱も、

「えー。つぶれちゃったの。美味しかったのに残念ね」

 と、驚かれた時点でジ・エンド。まったくもって打つ手がなかった。真相は闇の中。モヤモヤした気持ちを抱えるしかないのだろうと諦めた。

 ところが、事態は急展開を迎える。

 数年前、地元を歩いていたときのこと。わたしの名前を呼ぶ人がいた。

「ああ。やっぱり、そうだよね。懐かしいなぁ。久しぶり。元気にしてた?」

 最初、それがあのとんかつ屋のおじいさんだとわからなかった。なにせ、十年以上見てきた姿はいつだって調理白衣を着用していた。アロハシャツで陽気に決めたちょい悪な格好はあまりにも違和感たっぷり。同一人物とは思えなかった。

 目の前でなにが起きているのか理解したとき、わたしは変なスイッチが入ってしまって、

「そちらこそ、お元気だったんですか? お店、なくなっていたからビックリしましたよ。息子さん、跡を継いでくれなかったんですか。揉めてしまったりしたんですか?」

 と、いま思えば失礼な質問を一気にまくし立ててしまった。おじいさんは戸惑った様子で固まった後、フフッと鼻で笑い始めた。

「違う。違う。揉めてなんかないよ。店を継ぐ必要がなくなっただけ。むしろ仲がいいぐらいだよ」

 どうやら、息子さんはとんかつ修行と並行して取り組んでいたFXで大成功。信じられない金額を稼いだらしい。

「そりゃ、とんかつを辞めて、真面目にFXを頑張りたいと言われたときは腹が立ったよ。ふざけるんじゃねえって。でも、見たこともないような金額の書いてある通帳見せられたら、仕方ないよね。おまけにマンション買ってくれたしね」

 なんでも、とんかつを揚げるタイミングと外貨を売買するタイミングには通じるところがあるらしく、息子さんはおじいさんの教えにめちゃくちゃ感謝しているそうだ。

「俺にはよくわかんないけど、役に立ったのはなによりだよなぁ。おまけにマンション買ってくれたしね」

 おじいさんと別れ、一人、夕陽をぼんやり眺めていたら、なんだか妙に悲しくなった。そして、わたしもFXやってみようかなぁと心が揺らいだ。



マシュマロを始めてみました。
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