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普通であることの勇気-アドラー心理学

最近、「普通であること」のありがたさを身をもって実感し始めている。

そう感じていた時に、アドラー心理学を復習する機会があった。
読んだ本は、嫌われる勇気と幸せになる勇気。

普通であることの勇気』とは
・「普通であるとは無能ではない。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などない。」(「嫌われる勇気」アドラー心理学より)
・「人と違うことに価値をおくのではなく、わたしであることに価値を置く。」(「幸せになる勇気」アドラー心理学より)

ここでの「普通」とは、すなわち「ありのままの自分」、ニュートラルな自分のことを言っていると捉えている。

競争社会、あるいは自己レース化していた世界において、私は常に自分の最速ギアで走り、上位に入賞することだけを欲していた。
幼い頃は、おそらくただ好きなように走っていれば、結果がついてきていた。楽しく走ることが目的であり、結果はだたの評価に過ぎなかった。
明確な時期は分からないが、良い評価をされることが目的にすり変わり、知らない間に承認欲求の奴隷と化していた。
それでも、最初は上手く走れていた。だが、上位入賞すれば、次のレースでは強者達が待っていた。
レースを経るごとに思うような結果や評価は得られず、次第に自分を卑下し、落胆するようになる。

そうして、
評価だけを求め頑張って走り続けた過去不満を抱き、
もう評価されることのない未来にひたすらの不安を持つ。
そんな私は、いまに生きておらず、過去未来、仮想の他者の中に囚われていた。
評価されない=アイデンティティが無い=自己喪失に近かっただろう。

そう考えていると、
人と何を話せばいいのか分からなくなった。
人と話す権利や資格があるのかが分からなくなった。
人が怖くなった。
自分がこの世界にいる意味が分からなくなった

答えを探して、いろいろな本を読んだ。
結論としては、前述の通り、承認欲求への極端な偏りだった。
そして、深層心理は、「人が好き=人に好きでいられたい→人に嫌われたくない→評価されれば嫌われない」と分析した。

人が好き」というシンプルな思いは、どう満たせることができるのか。

そう考えていた時にふとTwitterを見て、
「○○以来投稿していないのか」と投稿した。
すると、友人から
「こっから鬼つぶやきして」と冗談まじりに返答がきた。
私も普通にSNSで発信していいのだと、別に権利や資格なんて要らないんだと思った。

また、別の友人の投稿を見て、DMをしてみると、友人から
「大切な家族友人は私と意見が合わないことが一つや二つあったところであんま気にしない人達。そこで議論になってより仲良くなったりする」
「みんな違ってみんな良いんだよ」
と、返信をもらった。

このあたりから、私は、他者からの私への視線と、私や他者から他者への視線に気を配り過ぎていたことに、ようやく気がついた。
また、人が好きという感覚は、おそらく全ての人ではなく、自分の大事な人達。その人達に嫌われることがまずない。
また、他の人達には無理して好かれる必要はない。

二人のメッセージを自分なりに言語化すると、
好きなように自由にやればいい。他者と同じでなくてもいいし、他者比較も必要もない。大事な人達と、普通に過ごせば良い。」のだと。

普通であることの勇気とは、自由であり、安心であり、いま、ここに生きることである。

どうして 時が経って 時が経って そう僕は気がついたんだろう?
どうして 見えなかった自分らしさってやつが 解りはじめた
どうしても叫びたくて 叫びたくて 僕は泣いているんだよ
どうしても気づきたくて 僕は泣いているんだよ
「アイデンティティ」ー サカナクション

文章を書くことが嫌いだった私。
おそらく上手く書こうとするあまり、書きたくなかった。
皮肉なことにSNS(Twitter、note、Instagram、Facebook)で、自分で考え、思いを書き殴ることで、見えなかった自分らしさ=ありのままの自分を解りはじめている。

読んでくださり、ありがとうございました。
なお、何か気づきや感じたことがございましたら、気軽にコメントを頂ければと思います。

また、上述の二人の友人をはじめ、多くの友人、サポートしてくれる家族に感謝。

なお、私がSNSをどう利用しているかは、下記をご覧ください。

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