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理系で入学し、進学した文系で覚醒した

 私は、四国の愛媛県にルーツがある人間ですので、余計なのかもしれませんが、松山市出身で、有名国立大学(文系)出身であっても、松山市ゆかりの夏目漱石の『坊ちゃん』司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでいないと聞くと、ちょっと学歴ほどのものはないのではないか、と疑ってしまいます。

 それは偏見だろって、思われるかもしれませんが、上記の2作品は、普通の読書家の人なら、大抵、通り過ぎている作品で、しかも、松山市にものすごいゆかりのある作品ですから、そこの出身の人が読んでいないとなると、少々、その教養に疑いを持ってしまうのですね。
 ※これは、上記の作品を読んだことのある人ならば、それほどの疑念なく、単なる偏見ではないと、理解いただけると思いますよ。

 私は、一応、大学入学試験までは理系の科目を選択している人間なのですが、何が受験時の得意科目だったかというと、「国語」「生物」であり、そのことからも本格的な理系の人間ではなかったことが推察できます。

 国語もどういうわけか、理系の人間なら捨てることの多い、古文や漢文もかなり熱心に勉強していました。
 ※ですので、今も、漢文調の言葉は嫌いじゃありません。言葉の響きやリズムが格調高くて、いいんですよね。

 受験も、誰も受験時に不利になることを教えてくれませんでしたから、生物と化学で受験して、高校時代には物理を本格的に勉強しませんでした。
 ※物理に苦手意識があった訳ではないのですが、生物が好きだったので、科目選択したのです。その代わり、大学に入ってから、物理の学習に大変苦労しました。

 1・2年の駒場の教養学部は、ほうほうの体で、何とか抜け出し、農学部の中の文系的な学科(農業経済学科)に進学しました。

 東京大学の文系の期末試験は、当時は、解答用紙として、B4の罫紙が何枚も配られて、それに解答をダァーッと書きつづるというものでした。

 私は、このスタイルは結構好きでしたから、弥生やよい(農学部)に行ってからは、私の成績は覚醒しました。

 駒場時代は、試験対策委員(こういうのは他の大学にはあるのでしょうか。これがなかったら、私は卒業できていません。)のお世話になるばかりでしたが、弥生時代になってからは、自分のノートや試験に向けての解答例を貸し出す番になりました。
 ※ちなみに、弥生という地名は、弥生式土器の弥生です。この地から、発見された土器が、弥生式土器と名付けられたのです。

 かくして、農学部に行ってから、私の成績は覚醒した訳ですが、奥さんにも、「アンタは、どう見ても理系じゃない。」と言われます。

 そうなんだろうなぁと思います。その学科内には、理系からの進学組には理系にくじけた人間が多く、文系からの進学組には理系への憧れが多い人間がいました(農学部ですから、はた目には理系に見えます(www)。)。
 ※東京大学は、駒場から3・4年生に進学するとき、学部が選択できるのです。これは、進学振分けと言われ、東京大学に留年を多く発生させる要因になっていると思われます。ちなみに、私の進学した学科は、理系からも文系からも進学できる特殊な学科でした。

 3・4年生への進学には苦労しましたが、その代わり、自分の中では、納得のいく学科に進学できました。これは、東京大学にある進学振分けのプラスの面だったでしょうね。

 弥生時代は、とにかくレポートを書く機会が多かったですが、私は、本を読むのも嫌いじゃありませんし、レポートも書くのも早く、とにかくいの一番に提出していました。
 ※早いだけじゃありません。早いからと言って、内容がボロかったとは思っていませんよ。ちなみに、当時は、すべて手書きのレポートでした。隔世の感がありますよね。

 ちなみに、今も読書は好きで年間百冊以上を30年間以上継続していますよ。人間って、やっぱり向き不向きはあるもんなんだよなぁ。

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