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『マチネの終わりに』を読んで

分人主義という考え方

以前、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』という本を読んだことがありました。

現代は、仕事や家庭、パートナー、SNSなど様々な場が存在しており、「本当の自分」という一個人では完結しえない。

「本当の自分」が場ごとにキャラを変えているという捉え方でなく、
個人をより小さな単位に分けた”分人”という考え方がしっくりくるのではないか。というもの。

※ 読書メーターに色々な読者の感想があるので参考になります。

私たちは、確固とした自我のある「本当の自分」がいて、その上で、人付き合いの中で「キャラ」を変えたり、「外向きの私」を演出したりしていると思いがち
これから多くの問題に人間が複数的に関与する時に、人間はそれぞれの人格を切り離した「分人」として対応せざるを得ません。そうしなくては人間の精神がもちません。
「閉ざされた共同体では一人の個人で通用したが、都市化やネット社会化で人はバラバラな顔を持ち、場に応じて自己を調整する能力が求められる。人格が変わることはネガティブに思われてきたが、肯定した方が楽になる」
幸福を「個人」を単位に追求するのではなく、他者との「分人」において考えることが大事

たしかに、「分人主義」という考えの方が腹落ちするし、何よりスッキリすします。そこから、「平野さん、おもしろい方だなー」と思っていたのですが、久方ぶりにそんな平野さんの書籍を久々に手に取ってみました。


『マチネの終わりに』

天才ギタリストの蒔野(38)と通信社記者の洋子(40)。深く愛し合いながら一緒になることが許されない二人が、再び巡り逢う日はやってくるのか――。

恋愛系の話なのかーと手に取ってみると、文章や表現が上手く、つい引き込まれちゃいました。惹かれ合う二人の感情の深さ、濃さが如実に伝わってくるというか。

幸福とは、日々経験されるこの世界の表面に、それについて語るべき相手の顔が、くっきりと示されることだった。
世界に意味が満ちるためには、事物がただ、自分のためだけに存在するのでは不十分なのだと、蒔野は知った。
この世界は、自分と同時に、自分の愛する者のためにも存在していなければならない。憤懣や悲哀の対象でさえ、愛に供される媒介の資格を与えられていた。 そして彼は、彼女と向かい合っている時だけは、その苦悩の源である喧噪を忘れることが出来た。

ここまで深く思い合う二人ですが、巡り合わせによって、二人の関係は遠のいてしまいます。深く大きくなっていた感情がそのまま、悲しみや悔恨に変わる。

その様子もまた、手に取るように伝わってきます。

「自由意志というのは、未来に対してはなくてはならない希望だ。自分には、何かが出来るはずだと、人間は信じる必要がある。そうだね?しかし洋子、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何か出来たはずではなかったか、と。運命論の方が、慰めになることもある。」

数年たっても、どこか頭の中に互いの存在が生き続けながらも、二人の置かれている環境は変わっていきます。乖離していく現実と、二人の関係。

蒔野は、今この瞬間の生の事実性に拘っていた。現在は既にもう、それぞれに充実してしまい、その生活に伴う感情も芽生えてしまっていた。過去は変えられる。──そう、そして、過去を変えながら、現在を変えないままでいる、ということは可能なのだろうか?

ラストシーンでは、(極端ですが)映画『君の名は』に見る、瀧くんと三葉が電車に乗っている場面で 「え、、会うの..!? それとも、いつもの新海誠がくるのか....」と手に汗を握った時の感覚に見舞われました笑

うわーーーという感覚にのめり込んでしまいますが笑、とても良い書籍だったので、小説好きの方はぜひー!

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