#10 そのエビデンス、本当にエビデンス?

【声優 佐原誠って?】

●アルビン!&しまっピーズ「サイモン」役
●カードファイト!! ヴァンガードoverDress「コイデ」役
●ぷよぷよテトリス2「スクエアス」役
●アサシンクリードヴァルハラ「オズワルド」役
●CallofDuty:ModernWarfare:Warzone「アズール」役
●ロシャオヘイ戦記「冠萱」役
●真心が届く「チェユンヒョク」役
等のボイスを担当しております。
宜しくお願いいたします!

*この動画のトークを「だいたいの形」で書き起こしました。
*動画を観る時間取れないよー!という超絶お忙しい方向け。
*あるいはテロップがわりとしてどうぞ。

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どうも、佐原です。
【声優 佐原誠のサハラジ!!】にお越しくださいましてありがとうございます!
ではさっそくサハラジオ、始めて行きますよ、というわけで今回のテーマはこちら

「そのエビデンス、本当にエビデンス?」

はい、今回10回目となります…。というわけでさっそくいきますよ!!

前回は
「エビデンスも使い方を間違えるととんでもない事になるよ」というところまでお話させていただきました。今回はこの続きからいきますね!!

1回目から佐原さんが度々口にしてきたこのエビデンスというモノ。扱い方を間違えるとこれまたとんでもない事になる。

半歩間違えると「ひたすら理詰めで相手を責める」みたいな事になりかねません。

「怒りながら論理的に説明する事は、人体の構造上難しい」と8回目あたりで申しましたが、これは即興(アドリブ)の話であって「事前に集めておいたエビデンスを放出する」のであれば、怒りながらでも可能なわけですね。



5回目で、GADHA(ガドハ)のお話をさせていただきました。

GADHAとは「パワハラ・モラハラ加害者の会」の事ですが、その代表である「えいなか」さん。この「えいなか」さんこそ、この「エビデンスベースのパワハラ加害者であった」と、ご自身自ら語っておられます。

それによると…エビデンスベースのパワハラをする方というのは
「気になる事、他人に直してほしい事があると、自分の気持ちの正当性を証明する材料(エビデンス)を集め、資料にまとめる。そしてその資料に基づいて、相手に怒りをぶつける」
のだそうです。

確かにこうすれば「エビデンスベースで怒る」という事が可能になります。

実際に加害者ご本人がそうおっしゃっているのもあって、「エビデンスを提示すればいい」わけではない事はどうやら間違いなさそうです。こういう場合もあるので、佐原さんは1回目から「そもそも怒りとかいる?」と、感情面のお話もさせていただいているんですね。

なぜ「怒りがいらない」か、この「えいなか」さんの例で申しますと…「怒り」があると「上手くエビデンスが集められないから」です。

どういう事かというと「自分の論を正当化するために有効なエビデンスだけ集めておりませんか」という事です。言い換えると「自分の論が揺らぐようなエビデンスを、意識的無意識的関わらず排除してしまっていませんか?」と、そういう場合も中にはありそうだぞとそういうお話です。

何かについて考えだす時。大抵の場合、まず「仮説を閃く事から始まる」と思います。何故ならば「考えだすにもとっかかりが必要である」からです。

その上で、その仮説を立証するために関連しそうな資料を調べていくわけですが、資料を集めて考察した結果、最終的には「最初に閃いた仮説とまったく異なる結論になりました」何てことがあります。

「あります」というか、佐原さんの場合はそういう事めっちゃあります。なんなら自分が最初に閃いた仮説が証明された事の方が少ないです。

どんだけ佐原さんの直感は使い物にならないんだ。まぁ僕は頭悪いんで特別そうなのかもしれなくて、世間の皆様はそうじゃないかもしれませんが(

とにかく、エビデンスを集めるにも、そのように「不都合な事実を排除しない」事は絶対に心がけるべきだと思うんです。なるべく中立に、中立にと。求めるものは「自分の論を正当化する事」ではなくて「真実」であると、その意識を持つことが大切です。

「もしかしたら間違っているのは自分かもしれない。改めるべきは、実は自分かもしれない」その可能性を常に頭の片隅に置いておくことが大切だと思うのです。

そもそもの動機が「相手が間違っているという先入観」が出発なのですから、その反対である「自分が間違ってるかも」を意識するくらいしないと、バランスが取れません。

「自分の論の正当性を証明する根拠」を求めた途端に、集めた資料(エビデンス)には色が付きます。そのような色のついたエビデンスに基づいた理屈は、不都合な事実が排除されたモノである可能性が捨てきれませんから、実は破綻している可能性がある。

じゃあエビデンスになるべく色をつけないためにはどうすればいいかというと……真摯に誠実になる事です。

エビデンスに色を付けないためには、資料集めの段階で、前頭葉をフル活用して、論理的に、冷静に、真摯に集めざるを得ません。

色のない資料集め、つまり「中立な資料集め」をするためには冷静さと思考力が必要不可欠ですから「前頭葉が機能低下し思考力が落ちた状態」つまり「怒りながら」では、エビデンスを構築するための資料集め自体上手くはいかないのです。

そう考えると、例えその「お叱り」がエビデンスベースだとしても、怒ってる時点で、持ち込んだエビデンスには正当性が乏しい可能性があると言えるわけで。

結局のところ、他人に改善要求する全プロセスにおいて、例えばエビデンスを集める段階でも、そこから考察する段階でも、実際相手に改善要求を求める段階でも、徹頭徹尾「その怒り、いる?」に立ち返ってくるわけです。


そもそも論、散々今まで心理学や脳科学の分野で「怒り」のデメリットが、特に「人間関係においていかに問題を起こすか」は研究で証明されているところでして、それを調べて資料に入れていない時点で、そのエビデンスは不足であると言えます。つまり「怒っている自分を疑うことなく肯定している」時点で、そのエビデンスの科学的根拠が揺らぐという事です。


しかしながら難しいのは叱られる側。

例え相手が提示してきたものが突っ込みどころだらけのエビデンスであったとしても、それを即興(アドリブ)で論破するのはなかなか難しいと思います。

特に「立場の上と下」がある関係で、下の人が「意義あり!!」なんてどっかで聴いた事のあるような口上を皮切りに、小気味良く論破するなんてまず不可能。例えエビデンスに穴を見つけられたとしても、今後の事(上司からの報復)を考えると恐ろしくてできません。

それに、そもそも大抵の場合は、穴に気づく事すらないと思います。「怒りの感情をぶつけられると人は思考力が低下するから」です。思考力が低下した状態では、気づける事も気づけないわけです。

そうなると、エビデンスベースで叱られる側は、いよいよもって逃げ道がなくなります。逃げる事も闘う事もできず、ただただ「感情論」と「一見それっぽい理屈」をぶつけられるサンドバックと化します。

楽しいのは殴っている方ばかり。殴って発散したストレスは、数倍の重みを帯びて、殴られている側に蓄積されます。

殴られる側は、感情面でも理屈面でも逃げ道がありません。そのように、心も体も逃げ道がなくなってしまったら、次の段階は「心身を病む」。このフェーズに入る可能性がある。

これは大問題です。

だからこそ、「叱る」行為に「そもそも怒りの感情いる?負の感情はなくてよくない?」と申しているわけでして。何故ならば、「怒り」のような「負の感情」が「改善要求」にくっついているのがそもそもの問題なのだから。


しかしながら、「怒りがない」だけでもなんだか不都合が起きる気がしてなりません。そこに、「愛」に準ずる感情、愛の延長線上にあるものがないと、やはり人さまの気持ちを動かせないような気もするのです。そこでキーワードになってくるのが……


はい、長くなりそうな気配がするので次回に回します!!!
今回も最後まで聴いて下さってありがとうございました!!
それでは、またね!!!



【了】



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