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自意識と美意識

 自分に自信がある人って羨ましいし、素敵だなってそんなふうに目に写ることが多い。しかし、そもそも自信ってなんだろって考える時間の方が多い気がする。 自信は自己の評価を自身で下し、尚且つその平均的な基準をクリアしているという実感の上に成り立つ。 私が最近気になっているのは美容における「自信」ひいては後々、説明しようと思ってはいるが「自意識」と「美意識」の関係性についてだ。

 自信のあるひとはかっこいいし、魅力的だと思う。なんなら、私からすればその人が持つ確固たる自信が何か特別なものを感じさせるのだ。美人だから、とかイケメンだから、とかスタイルがいいからだとかそういったことも美意識にはカウントされるだろう。だけど、美しさの基準はただの概念的で流動的な時間経過とともに人類が生み出した一つの偶像でしかない。一定の基準にそぐわないからといって自分自身が否定されるようではあまりにも不幸で私は生きていけなさそうだ。

 したがって、今日のキーワードは「自意識」「美意識」「自信」「自己」こんなもんだろう。あなたはこれらについて何を思いますか。

 あなたは今、自分にとって自分自身が美しい存在であると思えていますか。思う必要があるのかもわからないけれど。はたまた、そう思うという行為やその気持ちが人生において重要なエッセンスであると考えますか。

バランス感覚

 人は、どのような方法で自己を見つめているだろうか。それは、自己を他人の目線、第三者的な基準を設けて認識するのか、はたまた自己の内面と向き合うことで認識するのか。この二つに大別できるように考える。

 あなたは今、休日に仲のいい友人とショッピングに来ている。そこであるアイテムを見つけ、青と黒どちらのカラーにしようか迷っている。内心は、青にチャレンジしていみたい気もするが、少し気恥ずかしい。無難な黒にしておけば間違いはないがなんだか面白みに欠ける気がしている。するとそこに友人が様子を見に来た。そして友人は黒を推してきた。さて、あなたは、他人の意見を尊重するか、自分の着たいものを着るのか。答えはどちらでもよいと思う。だけど、ここで大切なのはバランス感覚である。他人の意見を気にしすぎる必要はないんだという安定感が大切だ。何かに左右されるばかりじゃ気に入った自分に出会いチャンスを逃してしまう。こんなふうに自己を見つめる機会は意外とありふれた日常の中にわんさか溢れている。

 私たちは常に、自分自身を見つめているし、その評価を絶え間なく行いアイデンティティーを確立している。ここまで、自己を見つめる方法について大きく二つを取り挙げた。これらのどちらか一方に依存して自己を見つめるのは危険だし、このバランス感覚が今の時代を生きていく上では結構必要だ。なぜなら、インターネットと常につながり続けている私たちには困難が多いからである。さまざまな個性が否応なしに流れ込んでくるSNSは時としてアイデンティティー確立までのモラトリアムを奪い、そこにあっていいはずの自由を制限させる。

 それは幼き頃に抱いた幼稚園の先生になりたいだとか、お父さんと結婚するだとか(私は思った事もないが)そういった憧れや夢は小さな世界だからこそ輝いて見える対象であると言うことだ。だから歳を重ねるにつれ憧れの対象もその選択肢自体が増え変化していく。未知の世界を見せてくれるSNSがもたらした情報格差のフラット化という恩恵は輝かしいものである。だが、一方でインフルエンサーと呼ばれる人に影響を及ぼすことを主とした職業が誕生するほどに人の思考が左右されてしまう機会が増えてしまった。定まったものがないままに、影響を受け続けることは必要なはずの思考力を奪っていくようで私は切ない気分にさせられる。

 だからこそ、そんな今だからこそ、他人と自己の目によって正当に自己を評価できるバランス感覚が大切だって思う。

 バランス感覚が狂ってしまうと色々と問題が生じてくる。自分を甘やかすことと、自分を愛することは似てるようで違う。この区別ができなくなってしまうのである。いい例え話も思いつかないけれど、よくあるのは太ってる自分を卑下するのもよくないが、「どんな自分も愛そう」みたいな雰囲気を醸し出して思うがままに食べ、健康を損ねては本末転倒だろう。そういった具合の事柄だと思っている。んー、違うかな、いや、今のところはこのくらいしか思いつかない。

自意識

 自意識くらい自分で舵を取りたい。

 自意識とは自分自身についての意識。自我の意識のこと。自我、というワードを耳にすると教育心理の授業で触れた心理学的な意味合いを思い起こす。自我は簡潔に身近に表現するなら自分のこと。哲学的にいうなら、この言葉は随分と危険だけど、哲学的に言えば、さまざまな行為や知覚において自己同一的な主体であり、それは他者や外界と区別されることで意識される存在であろう。そして、心理学的には行動や意識の主体である。精神分析の分野においてはイド(超自我)を統制し現実に適応させるエゴ(自我)と捉えられる。らしい。

「自意識」と検索欄に入れると一番上には「自意識過剰」と出てきてさらには「自意識過剰 治す」とあった。自意識過剰とは他人からどう見られているのか気にしすぎてしまうことらしい。

 日本人は元来、生まれ持ったその民族的特性として謙虚であるとかなんとか言われることが多い。その中に、自我つまりは自意識も少なからず影響を受け、今日の自意識過剰を治したいと願う人が多く存在しているのかもしれない。人にどう見られるとか、どう見られたいとか、受動的な観念のもとに成り立っている自意識は脆い。だって、他人はコントロールできやしなし、する必要もない。だが、受動的に自意識を成り立たせて仕舞えば、その自己認識さえも他者にコントロールされてしまうことになる。

 ここでもよく伝わるかもわからない例え話をしようかな。男女混合年齢も不揃いな30人に「かわいい」と思われる服を着ていくとする。自分ではこれはウケがいいだろう。かわいいだろうと思ってペールピンクのワンピースを着て行った。ところが、ある人には綺麗だねと褒められ、ある人にはおしゃれだねと。それまた他の人には派手だねと言われたとしよう。当初の目的は「かわいい」だった。この結果を失敗だと肩を落としてしまうのか。それとも、そういうふうにも見えるのかと自分に新たな発見をするのか。前者が自意識過剰、というか受動的な場合を当てはめてみたんだけども、伝わったのかしら。

 ともあれなんだか「残念」な気がしないですか。自意識過剰って。そんな話になっちゃいました。自分をよく知って正当に評価していくことはきっと難しい。だけど、知ろうとしたり、その中で肯定的になれれば、きっと少しだけほんの少しだけでも自分自身を特別な存在として認めてあげられてハッピーになれるかもしれない。そしてら、きっと周りのみんなも特別な存在だと認め合える気がして、そうなったら益々ハッピーだなと妄想してしまう。


美意識

 「美」に関する「意識」、美という概念は汎用性が高い。外見や芸術作品など可視化されたものを「美」という基準に従って評価する事もあれば、美学などといって思想としてのある一定の統制を保ったものもある。

 分かりづらい話は置いといて、今日は主に可視化された「美」、それを大きく形作る意識について最後に書き留めておきたい。大学2年の頃、文化人類学の授業のなかで美容整形を絡めた「美」についてのレポートを書いた。それは、どうして美容整形する人が多いのか。とか、美しいことと権力の関係についても考えてみたものだった。あの、あれだ、クラスにカーストが存在していた頃、決まってピラミッドの一番上は可愛い子かイケメン、そんな常識のような現象がなぜ起こってしまうのだろうかと疑問に思ったことが発端だった。

 美しくなりたいという願望は無垢なものであるだろうが、そこに自分なりの意識がなくては、心地よく生きていくことは難しいのではないだろうか。つまり、美意識の持ち方は大切だということ。美しいということがもっと形のない流動的で寛容なものになればいいなと思う。あの人可愛い!あの人になりたい!ではなくって、あの人のああいうところいいな、私もこうしてみようかな、とかそのくらいになればいいのになって思うよって話である。

 どこの誰がセルフィーをインスタにあげようとなんの抵抗もなくなるくらいに寛容ならいいのになあ。だってみんながみんな、それぞれ「いい」んだもん。

 ここまで書き留めてきたこと全てが、なんなんだコレというくらいには混沌とした文章になってしまったが、書き留めることでまた何か考えるきっかけになればそれで十分だ。十分な文章だ。

 「美」は沼だから。向き合いすぎず、ゆっくり焦らず、私も私なりの美しさを磨いていきたいと思う日々である。


  

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