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僕の昭和スケッチ

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「僕の昭和スケッチ」は、昭和レトロを描いたもりおゆうのライフワーク画集。誰の心にもある遠い日の思い出を200枚を超える水彩画で・・・毎週月曜更新予定(祝祭日を除く)。
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#アート

ガリ版印刷と卒業文集

 「僕の昭和スケッチ」63枚目 ガリ版印刷って覚えていますか? 覚えているあなたは、きっと昭和生まれですね。 小学校の時に文集の担当を仰せつかると、必ずこれを使ったものです。 僕は卒業文集の担当でした。 正式名は謄写版。和紙にパラフィンを塗ったロウ原紙という原紙をヤスリ板の上に乗せ鉄筆で文字や簡単な絵をガリガリと書くのですが、線がかすれてしまったりして中々上手くいきませんでしたよね。それでも、グループでワイワイ言いながらやるのも楽しかったものです。コツを覚えると上手くい

「みんな路上アーチストだった」昭和の街角

 「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ136枚目 ローセキという柔らかい石でみんなが路上に絵を描いていた時代があった。 ローセキの値段は覚えていないが、何しろ現代でも1本30円程度だ。 昭和の御代なら相当安いものだったと思う。 潜水艦や、鉄人28号、アトムにゴジラ、、、僕らは何でも描いた。 だが、昭和30年代をピークに次第にローセキ遊びは衰退していった。 車の往来が激しくなったから? テレビが普及して子供が家の中にいる時間が増えたから? 町内会というコミュニティの衰

昭和「インスタント時代の始まり」

 「僕の昭和スケッチ」112枚目 インスタント時代の代表選手といえば、やはりインスタントラーメン! そのインスタントラーメン第一号の「チキンラーメン」が発売されたのは、1958年のことでした。 我が家でも早速買って来て、「おいしいやろか?」などと言いながら作ったものです。 食べてみると、インスタントラーメンの味は本当のラーメンとは全く違うものでした。しかし、にも関わらずそのクセになるような新しい味と便利さで昭和庶民の間にあっという間に広がっていきました。何しろ、お湯を注

「土間お化けのいた夏」 お盆の思い出

 「僕の昭和スケッチ」89枚目 <「土間お化けのいた夏」© 2021 もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> 子供の頃、ある夏の盆に奇妙な夢を見た。 こんな夢だった、、、 私は土間に立っており、ふと見ると、土間の鴨居の上をまっ白いハツカネズミが渡って行く。そのネズミは見る間に窓の外に姿を消し、その窓の向こうには縁日ののぼり旗が見えた。祭り囃子も聞こえて来たので、「ああ、隣の神社でお祭りをやっているんだな」と私は思った。 さて、その夜の事。 眠ったかなと思うと、何か気

電話ですよ〜とお隣さんに呼ばれた時代

 「僕の昭和スケッチ」83枚目 <画/もりおゆう©  原画/水彩 サイズF5> まだ、裕福な家庭にしか家電がなかった時代… 「電話ですよ〜」とお隣さんに呼ばれたものです。 遠い親戚等からの急用がもっぱらでした。 一方で、当時スーパージェッターというアニメ番組があり、そこでは流星号という空飛ぶマシンに乗った主人公の少年がAppleウオッチのようなもので通話をするというシーンがよく描かれました。 「流星号応答せよ、流星号応答せよ!」 懐かしいフレーズです。 当時電話も

続:小川で小ブナを釣った日々/責任を取らない人達へ

 イラストエッセイ「僕の昭和スケッチ」73枚目 <画/もりおゆう©  原画/水彩 サイズF5> これは、先週の記事「小川で小ブナを釣った日々」の続きです。 (上の絵は、先週の記事にあった所とほぼ同じ場所です。) 中学になった僕が2年ぶりに母親の在所を訪れ、在所の子らとあの小川に出かけると… 行く道々で在所の子らが言いました。 「ゆう君、もう魚はおらんで。川へ行ったかて何も釣れへんで。」 案の定、小川へ着くと、護岸はコンクリートで固められ水は黒く汚れていました。なんで

小川で小ブナを釣った日々/遥かな昭和

 イラストエッセイ「僕の昭和スケッチ」」72枚目 上の絵はお袋の在所の風景を描いたものです。 見渡す限り野原と水田が続き、小川の水は綺麗に澄んで、見上げる空は何処までも青く、川上には水車小屋のようなものが見えました。 そんな春の日は、日がな一日乗っ込み釣り。 (産卵期に魚が岸近くの浅場にやってきて盛んにエサを食う時期の釣り) 春になると、田んぼの脇の小川でも鮒が沢山釣れたのです。 時には思わぬ程大きな鮒が糸にかかる事もあり、 銀鱗を輝かせるその魚体に目を見張ったもの

鼻長バスが町や村を走っていた時代/昭和

 イラストエッセイ「僕の昭和スケッチ」70枚目 <画/もりおゆう©  原画/水彩 サイズF5> これはボンネットバスといいます。 昭和30年代頃まではこの鼻長バスが日本全国の町や村を走っていました。 このバスの可笑しいのは、これが走っていた当時でさへ僕らにとっては何故かレトロな感じがしたと言うことです。 大抵は女性の車掌さんが乗っていて、車掌さんに切符を売ってもらって乗るのです。車掌さんは上の絵のようにお婆さんを待ってあげたり、体の不自由なお年寄りの乗降を助けるなど

昭和隠れ夜話「ついとべしょ」

 「僕の昭和スケッチ」69枚目 <画/© 2021 もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> これは昭和三十年代に、祖母が布団の中で僕に話してくれた美濃地方に伝わる古い民話です。 「ついとべしょ」(要約) 或る闇夜の事… 赤鬼が追ってくるので女童(めのわらわ)は逃げねばと夜道を駆けて行く。だが、目の前に大きな川があらわれ女童の行く手を阻む。川を飛び越して行かねば鬼に喰われてしまうのだが、川幅は広くとうてい女童に飛び越せるような幅ではない。 鬼はいよいよすぐ後ろに迫り来る

昭和の冬行事/こたつ開き

「僕の昭和スケッチ」66枚目 <画/もりおゆう© 原画/水彩 サイズF5> 昔、武士の家では亥の月(11月)の一番目の亥の日(2021年の場合11日)に暖房器具を出したそうです。町家では二番目の亥の日(2021年の場合23日)に出しました。これを「こたつ開きの日」と名付け、日本人は冬の行事としていました。亥(イノシシ)は、炎の神である摩利支天の使いでしたから防火の神と考えられていたためです。 季節季節の節目を折り目正しくつけて日常生活を営んでいく…、こういった日本の風習

VANだった時代/昭和ファッション

 イラストエッセイ「僕の昭和スケッチ」65枚目 <画/もりおゆう© 原画/水彩 サイズF5> 1960年代のお洒落といえば、やはりまずアイビールックです。 そして、アイビーといえば、これはもう間違いなく日本ではVANでした。 典型的なVANスタイルといえば… ボタンダウンのシャツに3つボタンのブレザー コットンパンツ 履くのは革のスリッポンシューズ というものでした。 けれど、中高生にとってシャツは親にねだって買ってもらえても、ブレザーなんて手に入る訳もありません。


一枚5円で買えたスルメ/昭和庶民フード

 「僕の昭和スケッチ」64枚目 <画/もりおゆう 原画/水彩 サイズF5> 昭和から平成、令和までの間で最も価格が上昇したものの一つといえば、やはりスルメではないでしょうか? 恐らくもうダントツです。 僕の子供の頃は一枚5円で買えました。 5円ですよ! 駄菓子屋の柱に束になってぶら下がっていたものです。 それが、今はいったい幾らになったでしょうか? 中には神棚に飾っておかねば…と思う程の高級品もあります。 5円で買えた頃のスルメは、庶民の味方でした。 火鉢であぶって

初恋、放課後、ポプラ散る

  「僕の昭和スケッチ」62枚目 <画/もりおゆう© 「初恋」 原画/水彩 サイズF5> 誰にも経験がある「初恋」 やはり思い出すのは中学時代ではないでしょうか? 放課後のグランドやポプラの樹…夕陽に焼けた体育館の赤い屋根… あなたにも覚えがありませんか… 忘れられない日、忘れられない時間… 映画のワンシーンのように脳裏にある日々… あなたにもありませんか……? <全ての著作物は著作権によって守られています> (All works are protected

少年時代/僕が歩けばラブホに当たる

「僕の昭和スケッチ」61枚目 <画/もりおゆう© 「ラブホ街を帰る」 原画/水彩 サイズF5> 子供の頃に一番不思議だった建物…、それはラブホテル! 僕の生まれた岐阜の柳ケ瀬界隈には、犬も歩けばラブホに当たると言うくらいラブホテルが多いのです。まぁ、柳ケ瀬は美川憲一さんの柳ケ瀬ブルースで有名になったように夜の街なのですから当たり前と言えば当たり前です。そこが、生活圏なのですから、その前を通るのは日常茶飯事のことでした。(中にはこの絵のように随分建物も古く、子供心に何や