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#15 勉強に遅れが出始めた2学期 【7年間の不登校から大学院へ】


 不登校7年間がついに高校へと入学した前回の記事はこちらから。


今回は、高校に入学してから学校を1日も休むことなく教室に通って突入した夏休みを終えて、2学期になったところから書いていきます。


入学してからスタートした怒涛の1学期は、高校に慣れるのに必死で、授業にもついていこうと熱心に家でも勉強をしていました。でも、1学期を無事に終えて夏休みに突入してからは、肩の力が良い意味にも悪い意味でも抜けてしまい、勉強をあまりしなくなってしまいました。


不登校だった小中学校の7年間から受験で無事に合格できたこと、そして高校の入学式から1学期を通い切った達成感と安堵感、授業にちゃんとついていけている、つまりは勉強がちゃんとできていると思った傲慢さな気持ちからか、私は次第に少し誤った方向へと進んでいってしまいました。

週に一回の塾にも通わせてもらっていたのに、学校での勉強はおろか、塾での勉強も疎かにし始め、さらにクラスでの友人関係のバランスが上手に取れず、仲の良い子にどうにか嫌われないようにと一種の依存のような付き合い方をし始めました。

高校、教室、勉強、友人関係、部活、塾、私生活。

自分のなかで重要だと考えていることが慢心によって徐々にバランスを崩し始め、ついには定期テストで全教科20点代なんてことが起こりました。


そんな日々をまた、ありのままに書いていきます。



2学期

 高校1年生、2学期。

長期休暇の夏休みが明けて、久しぶりに登校する心境はソワソワと落ち着かなかった。

毎日繰り返し通っていると気分の起伏はそこまでなかったのに、少し期間が開くと、久しぶりに会った友だちのように、なぜか全てがぎこちなくなってしまうような感じだった。


久しぶりの教室に入るとき、緊張はしたけれど、夏の日差しとセミの鳴き声に包まれた明るい校舎では、なぜかすぐに緊張がほどけた。だから教室に入っても、自分の席について落ち着くことができた。

また、高校ではクラスの人数が少なめだったため、小中学校では当たり前だった教室独特のザワザワ感もそこまでなく、ちゃんと深呼吸できる心境だった。

クラスメイトとはまだ距離があるけれど一通り仲良くなり始めて、各教科の先生たちとも顔見知りになったそんな状況で、また2学期の授業がスタートした。


2学期も毎日、教室に登校して授業を受けて、週2回の部活動と週1回の塾に通った。2学期にもなると、ある程度「高校生活」というものにも慣れてきて学校以外では友だちと遊びに出かけるようになった。





同じクラスにAKB48を好きな子(仮称:Mちゃん)がいたため、初めて握手会やコンサートなんかにも行った。まだスマホが一般的に普及する前だったから、みんなガラケーで通信手段は電話かメール。


金曜日の夜にはミュージックステーションを見ながらメールをしたり、塾の授業がある前日にはオールナイトニッポンを聴きながら宿題をしたり、放課後にはファーストフードを食べに行ったりした。

そんな普通の学生生活が初めて送れて嬉しかった、楽しかった。

おそらく、短期間で勉強を頑張って受験で合格できたことや学校に通えるようになったことで自信がついていたのかもしれない。

でも学生生活初心者ともいうべき私は、徐々にそんな生活のなかで慢心していくようになる。





勉強に遅れが出始める


 学校に通えるようになったこと、そして3ヶ月で勉強が追いついたことなどを内心自慢に思っていたのかも知れない。普通に学生生活が送れているということや初めての学生生活の楽しさに、私は徐々に勉強をおろそかにしていった。

塾にも通わせてもらっていたのにも関わらず、学校では最低限の宿題をやって行くだけ、塾にも最低限の予習で向かう。


そんな日々を繰り返していると、学力がどんどん下がっていった。


元々、受験3科目以外は小学生レベルの学力で止まったままなのだから、それは当然のことだった。だからこそ、中学を卒業するときに、これからはいっぱいいっぱい勉強してカバーしていこうと意気込んでいたのに。

繰り返す日々のなかで私はそのことを、大事な決心を忘れかけていた。

あんなに悔しくて、絶対に追いつくんだ! と強く意気込んだ気持ちが、慣れた高校生活のなかで早くも薄らぎつつあった。


高校に入学して最初の学力テストでは全教科6〜7割程度が取れていたのに、2学期の中間テストでは全教科が平均点を下回って、全てが20点前後の点数だった。


でも私はそんな点数を取ってもなおも改心せず、どんどんと違う方向へと自ら歩みを進めていた。


学校で目にする少し素行の悪い生徒や、先生に反抗しているタイプの子なんかの口調に影響を受け、家でも「最近、口悪いよ」と母から怒られるようになった。その他にも、夕方から夜遅くまで出かけるような予定を入れたりと、そんなふうになっていってしまった。

恥ずかしいまでに遅れてやってきた厨二病だ。




SNSが出現し始めた時代

 あのころ高校では、友だちと長電話するのがなぜか流行っていた。

学校で毎日しゃべるのに、家に帰ってからもなぜか電話をする。

本当に何時間も繋ぎっぱなしで、電話の向こうでは歩く音だったり生活音が聞こえてきて、そんなふうにずっと電話をしていた。
宿題を一緒にやるなんてことでもなく、ただダラダラと喋るだけ。


いつでもどこでも一緒でないと不安だったのだろうか。


当時は「SNS」という単語も一般的ではなく、友だちのほとんどがガラケーで通信手段はメールか電話。だからよほど仲が良いとかでない限りは、今ほど気軽に連絡を取ったりはしていなかった。

たまにスマホに買い替えた子がいて、そんな子はクラス中から「スマホだ!」なんてもてはやされる時代。

「プリントの写メちょうだい!」と言われても写メ(写メール)では画質が悪すぎて、文字が潰れてしまって読めなかった。


そんなSNS過渡期だったからこそ、友だち関係にSNSが少しずつ複雑に混じり合い始めたあの時代は、みんながSNS初心者だったように感じる。


どこまで繋がって、どこまで繋がり続けるのか。

どこまで影響があって、どこまで影響があり続けるのか。

あまり深く考えず、進化する技術をみんなが率先して使う。


ネットリテラシーなんてものも皆無で、みんな自由すぎるほどに、ときにはお構いなしに色んな言葉を放っていた。

実際の対面での会話で話される言葉と、文字としてスクリーンに映し出される言葉とでは、印象が大きく異なることが多々あって、それで思い悩んだ時間も長かった。


SNS初心者として、スクリーンに映し出される文字一つで傷ついたり、傷つけたりしてしまっていたように思う。

だから学校生活では、その便利さが少ししんどく感じる時があった。




小学校でも中学校でも、友人や学校との付き合いに少し疲れてしまったときは、対面ではない場所から帰ったら、ちゃんとそれらと切り離された自分だけの時間と場所があった。


でも、どれだけ電話をしても無料! なんてサービスが発達し始めて、メールも「パケホーダイ」でどれだけ連絡しても料金は一定で、便利になった分、自分だけの時間を切り離すことが難しくなった。


高校生になって学校に通い始めた自分。
あの7年間の不登校の日々には絶対に戻りたくない、と思っていた。
どうにか今回のチャンスは逃したくないと考えていた。



だから、



メールに返事しなければ、どう思われるだろう。

電話に出なければ、どう思われるだろう。

……嫌われてしまうだろうか。どうしても、嫌われたくない。嫌われないようにしなきゃ。


そんなふうに考えながら、友だちとやりとりをしていた瞬間が正直あった。




テスト前日の長電話


 定期テストの前日、特にテスト勉強をすることなく、いつものように自分の部屋で友だちと長電話をしていたら母からすごい形相で睨まれた。それでもなお私は電話を続け、1時間後にやっと電話を切って母に謝りに行った。


すると、母は「謝ることじゃない。ママが困ることじゃないから。でも、もうちょっと考えたほうがいいんじゃないの?」と一言放ち、その言葉で私はハッとした。

忘れてしまっていた大切なことを、ちゃんと思い出して、目が覚めた瞬間だった。


翌日の定期テストはもちろんできなくて、結果は26点だった。しかも科目は数学A。
中学のとき、特別授業としてあんなに先生に教えてもらって頑張っていた数学。もちろん他の科目も、高校入学から過ぎた月日と比例するように点数はみるみるうちに下がっていた。


さらに当時は家にwi-fiなんてものもなく、長電話をしすぎて料金プランからはみ出した通話料金は、翌月に請求がきたときにはすごい額になっていた。


お小遣いから通信費をなんとか払って、両親に謝った。

それから長電話をすることはなくなった。



当時の私の心境としては、長電話をすることが高校生らしいみたいに思っていたこと、勉強を頑張ると意気込んだ自分との約束をすっかり忘れてしまっていたこと、そして長電話に付き合わないと友人から嫌われてしまうのではないかと思う気持ちがなどが複雑に絡み合っていた。


高校になって普通に学校に通い始めることができて、ある意味で調子に乗っていた私は、色んなことで少し間違った方向に進んでいってしまっていた。

勉強はおろそかにする一方で、友人との付き合い方も「依存」に近いような、どうにか嫌われないように、といつも必死になっている自分がいた。





憧れたいた自分の姿とは


 教室にどうしてもいけなかった不登校の小中学生のとき、あんな純粋に学校生活に憧れていた私は、そんな学校生活に憧れていたのだろうか。


少人数のクラスだったから、授業で先生から当てられる回数はとても多く、多い時では先生と生徒の掛け合いで授業が進むようになっている時があった。

そんななか、勉強をおろそかにしていた私は徐々に先生からの質問にも答えられなくなっていって、先生によっては私が答えを分からないと露骨に嫌な顔をする先生もいて、勉強に特化したクラスのなかで落ちこぼれていく自分に少し嫌気がさしてきいた。


毎朝の英単語テストでの正解率は3~4割で、返却のときに先生から「もうちょっと頑張りましょう」といつも言われながら返された。

それと対照的に、仲の良かった友人Mちゃんは毎朝の英単語では必ず8~9割の正解を取っていて「毎日、すごいね」と先生に言われていた。


同い年で同じクラスなのに、自分とは違って、勉強ができる友だちの姿に憧れの気持ちが私のなかに芽生え始めていた。



ちょうどそんな最中、職員室前の掲示板で語学研修の張り紙を見つけた。



イギリスへの語学研修


それはイギリスでホームステイをしながら現地の学校に2週間通うという内容だった。

「定員は10名、英語での面接試験を通過した者のみ参加可能。説明会は10月◯日、会場:○○教室」と書かれているプリントをMちゃんと見て、一緒に興味を持った。



でも英語を学び始めてから1年にも満たない私は喋ることすらできないし、なんなら聞くこともできないレベルだったので、とてもじゃないけれど参加なんてできないと思った。


でも両親に話してみると「喋れないからこそ、行くんでしょ」と言ってくれて、さらにはMちゃんは自分が行きたいから私も一緒に行こうと誘うのだった。


とりあえず説明会に参加したものの、そこには30名以上の生徒が来ていて、英語をすでに喋れる子ばかり。試しにみんなでやった英会話では全く喋ることができず、問題文までもが全て英語で書かれたプリントは全然解けなかった。


でも説明会に参加した子は自動的に面接の予約が入れられたので、とりあえず面接だけでも、と面接を受けることにした。

面接日は朝から緊張していた。


面接時間が放課後の一番最後の時間帯だったので、秋で日が暮れる18時30分ごろまで学校のロビーで心細く待機していたことを覚えている。

面接時間が迫ってきたので指定の教室に行くと、直前に面接を受けていたMちゃんが教室から出てきて「全然、無理だった」と一言残して帰って行った。


あんなに勉強ができるMちゃんで無理だったの? と不安になりつつ、ほぼ入れ違いに面接室に入ったら目の前に5人の先生がいて、焦った。

面接内容はこんな感じ。


面接官「First of all, please introduce yourself(まずは自己紹介をお願いします)」


私『My name is……. I belong to *** teacher’s class(私の名前は……で、○○先生のクラスです)』
 *belong to ~:~に所属する の定型分は面接対策のプリントで覚えていた

面接官「What date is it today? Tell us it in English(今日の日付を英語で答えてください)」

私『My birthday is……(私の誕生日は……)』

面接官「No, we didn’t ask your birthday. We ask today’s date(誕生日ではなく、今日の日付を教えてください)」

私『? Oh, today is *cloudy(今日は曇っています)』
* “date(日付)”単語の意味が分からず、結局天気を答えるというトンチンカン具合


面接官「Why do you want to participate in this program?(どうしてこのプログラムに参加しようと思ったのですか?)」

私『Because I want to go to *Igirisu(イギリスに行きたいからです)』
*イギリスは英語でEnglandなどが正しい

面接官「……. Let me ask that again. Why do you want to participate in this program?(もう一度聞きます。どうしてこのプログラムに参加しようと思ったのですか?)」

私『Because I want to *speak English(英語が話したいからです)』
*speakじゃなくてlearn(勉強する)とかだったらまだ分かるけれど、語彙力が無さすぎて答えが全てこんな感じだった



こんな感じですぐに面接が終わり、結局私が何も英語で理解できていないので、早々に英語での面接は終わり、先生たちも日本語に切り替えての雑談になった。


面接官の先生の第一声は「まぁ、今の英語力で留学は厳しいと思うけれど」と言われて、まさかの目の前で面接に落ちたことを知らされた。


でも日本語に切り替わってから、面接官の先生に「改めて、参加したい理由が “I want to go to イギリス” ってどういうこと? あ、ちなみにイギリスは英語で “イングランド” とか “ユナイテッド・キングダム” だからね」と聞かれたので、日本語で「英語が全く喋れないからこそ、現地に行ってみたいんです」と答えた。


最後に「じゃあ改めての合否は一週間以内ぐらいに電話でお伝えします」と言われて帰宅した。

ほぼ真っ暗な夜道を私は自分に落ち込みながらも「でも英語ができないからこそ、行きたいのに!」なんて変に反抗しながらトボトボと家に帰った。




それから10日ぐらいして家に電話がきた。

やっぱり面接には落ちた。


だけど、棚からぼたもち的な話があった。
それは想定よりも大人数の募集があったため、別プランを用意したが参加するかという話だった。

つまりは当初のプランは10名きっかりで、さらに現地で一人行動しないといけない場面があり安全面でも英語力が必要だから、面接に合格した人だけが行けるのは変わらない。
けれど、面接に落ちた子たち約20名は2名1組セットでホームステイして、また別の地域の学校に通うというプランを考えているとの話だった。


参加するか否か、返事の期限前日にすごく悩みながら行くか行かざるべきか、どうしようかと悶々と悩んでいた。

でもその夜、悩みながらふと夜空を見上げたら、満月だった月の模様がなぜかイギリスの形に見えたので私は行くと決心した。

えっ、なにその理由?!

と思われてしまうだろうけれど、なぜか私はそのとき真剣に「これは行けってお月様に言われている」と直感的に思った。大袈裟だけどそう思った。

いま書いていても、自分でなにを言っているか分からない。


でも兎に角、そんな理由で私は初めての語学研修に参加することを決心した。




するとそんな翌日、参加の返事をしに職員室に向かったら同じようにMちゃんも申込書類を手に持って来ていた。


それから出発まであまり日数はなかったのだけれど、英語に対する意識が変わったことは確かだった。

今までみたいに、受験やテストで文法的にどれが正解かを理論的に解くような練習ではなくて、日常会話での朝から晩でのワンフレーズ集みたいなCDを聴いたり暗唱したりするようになった。


同じ英語を勉強するにしてもアプローチの仕方が全く違うようになったことが不思議で、英語の奥深さみたいなものを少しずつ感じ始めていた。


でも現地では "Yes" "No" "Thank you" "Hello" "Good bye" ぐらいしか喋れなかった。本当になにも喋れなかった。



そんなイギリス現地での様子はまた次回に。


次回は #15 元不登校7年間がついにイギリス留学に!!(※2週間だけ)【不登校7年間から大学院へ】を更新予定です。



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