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#19 元不登校、大学受験で知恵熱?! 【7年間の不登校から大学院へ】

 不登校7年間のブランクを補う以上に、もっと勉強を頑張ってさらに良い環境にいく! と、劣等感を燃やしてひたすら勉強に励んでいた私でした。

高校2年生、学内の定期テストで全教科2割程度のところから、全教科9割をとるまでになり、全国模試の現代文では満点をとるレベルまで勉強を頑張った前回記事はこちらから。


今回の記事では、外部受験をすることを決意して受験勉強に励んだ高校3年生から大学合格までを書いていきます。

7年間の勉強のブランクに加えて、受験勉強のスタートが遅かったことから、第一志望の大学を言うと「記念受験?」なんて言われてしまうこともありました。

そんな私が劣等感を燃やしながら、勉強を頑張って第一志望の大学に合格した、その経緯をありのままに書いていきます。




高校3年生

 ついに私は高校3年生になった。
中学3年生になったときは、なってしまった、という感覚に近かったと書いたけれど、高校3年生になったときの心境としては、「やっとだ」という感じだった。

私にとってほぼ初めての学校生活。楽しいことも沢山あったけれど、やはり少人数クラスには少ない人数で特有の「濃ゆくて狭い世界」があることも知った。

思春期特有の友だち関係での派閥や、狭い世界だからこそ起こる傷付け合い。

学校に行くってやっぱり大変だ。

学校でも職場でもママ友でも、どことでも似たようなものかもしれないけれど、「3人いたら派閥ができる」って本当だなぁと思う。




さて、いよいよ高校最後の年になって、模試でも具体的な志望校を記入する時期になった。

私は高校2年生の最後あたりまで内部進学するつもりでもいたので、受験勉強のスタートは比較的 遅かったほうだと思う。だから最初に、自分が行けるのはこのレベルだろうと決めていた大学の偏差値はもっとずっと低かった。

でも進路相談のとき、担任の先生が「そんな、もったいない! 君ならここにいける」と違う大学を提案してくれたのがキッカケで、志望校を考え直すようなった。

先生が示してくれた大学は当時の私にとって「えぇ~?」と思うほどのレベルで、その大学の卒業生である親戚に話をしてみても「いやぁ、本当にあそこに行けたらすごいけどねぇ……」という感じだった。

勉強を必死に頑張ってきたつもりだけれど、でもやっぱり7年間の勉強のブランクはいつだって頭によぎった。

でも、やらずに後悔するよりも、やって後悔した方が絶対にいい。

そう思って必死に受験勉強を頑張ることに決めた。



大学選びに、いま振り返って思うこと

 当時、私は主に3つの大学で迷っていました。

1つ目は、(学力面で)確実にいけるレベルの大学X

2つ目は、必死に頑張ったら届きそうなレベルの大学Y

3つ目は、必死に頑張っても無理かもしれないレベルの大学Z


そして実際にオープンキャンパスで上記3つの大学に赴きました。


すると


1つ目(大学X)は、いわゆるマンモス大学で、無機質な感じ

2つ目(大学Y)は、大きすぎない規模で、ゆったりと豊かな感じ

3つ目(大学Z)は、規模はちょうど中間ぐらいで、砂っぽい感じ


という印象でした。


そして結局私は、2つ目の大学Yを第一志望に決めて合格して通うことになります。


上記はだいぶ抽象的な表現で分かりにくいかもしれませんが、学力の問題もさることながら、実際にその場に行ってみて、それぞれの学校環境に対して抱いた印象が大きく違ったことで、私は志望校を最終的に決め直しました。


「ここは、なんとなく、冷たい感じがする」

「なんとなく、この図書館には通いたくない」

「なんとなく、このキャンパスは心が浮かない」


私にとっては、その環境から「なんとなく」感じとってしまう、その雰囲気が非常に重要でした。


合格後は、4年間も通うことになる大学。


その場所や環境が自分に合わないものだと、非常にしんどくなってしまう。

だから大学選びでは、自分が感じる「なんとなくいい感じ♪」という直感にも近い感覚を一番に重要視することに決めました。



そしたら、あまりにそこの大学の学校環境が好きすぎて、もっと通ってもっとそこで学びたくなって、ついには大学院にまで進学することになりました。

大学と大学院で合わせて、6年間


それでも不登校の7年間という長い期間には及びませんでしたが、でも、自分が好きな勉強を好きなだけ極めていくことができて、自分と同じように勉強が好きな子が集まってきていて、みんながそれぞれに自由に学んでいる姿に刺激をもらって。

そこから羽ばたいていくみんなの姿はキラキラしていて。


「なんとなくいい感じ♪」
という自分の直感は、間違っていなかった。


自分に合った学校環境を見つけるのに、出会うのに、だいぶ時間はかかってしまったけれど、自分の気持ちや感覚を内観して見つめていった結果、やっと自分なりに答えの一つを手探りで探し当てられた結果だったのかもしれません。


私にとってその答えとは、

・光あふれる明るくて自然豊かで清潔なキャンパス

・大人数すぎない、騒がしくない学校環境

・自分と同じように勉強が好きで、それについて真剣に語り合えるような子が集まってくる環境

・雰囲気が全体的にゆったりとしていて、自由な校風

・どれだけ真面目に勉強しても、それを茶化されない環境
……etc


といった感じでした。

もちろん上記以外にも細かい項目はありますが、ざっくりだとそんな感じです。


ちなみに、こういった自分が過ごしやすいと感じる環境というものは、社会人になっても変わりませんでした。


大学院に通いながら、数ヶ月間の就職活動を経て、最終的に第一志望であった国際系の大企業から内定をもらい、その会社で実際に半年間、OLとして日々働いていました。

でもそこはワンフロアに社員が100人ほどいて、常に大勢に囲まれている環境で。会社の電話は3分に1回は鳴り響き、私がもっとも苦手とするザワザワとした職場環境でした。

独自の社内ルールも多く、どちらかというと昭和気質で体育会系の根性論ゴリゴリで個性を無くす方向性、オフィスは風も通らず無機質で、とてもじゃないけれど清潔でもなく、都内だから周りには自然もない。


どうして私はそんな職場環境を選んでしまったのか?

それは、就職活動を始めるとき、「不登校だったあの頃の自分とは違うはずだ」なんて思っていたのか、はたまた不登校7年間から、高校〜大学〜大学院(計9年)を通った結果、もう自分はそんな大人数の、かつては苦手だった環境でも、大人になった今なら大丈夫だろう、なんて頭のどこかで思ってしまっていたのかもしれません。



だから「大企業 = 安定」といったようなものに漠然と憧れを抱いて、そこでバリバリ働くんだ! と思っていました。でも実際に半年間働いてみると、心身ともにやっぱり疲れてしまっていました。


辞職の理由はそれだけではなく、他に理由があったのですが、やっぱり自分が苦手な環境に自分を無理に当てはめようとすると、結果的に急がば回れで、とことん効率が悪くなってしまうのだなと痛感しました。


だから学校でも、職場でも、それこそお気に入りのカフェなどでも、「なんとなくいい感じ♪」という自分の気持ちを尊重して優先してあげたほうが、やっぱり結果的に効率が良く物事がスムースにいくのかもしれません。


「なんか、ここ嫌だな」「自分には合わないな」「なんとなく、居たくないな」と自分の心が訴えかけてきて、その声が鳴り止まないのなら、一度ちゃんと立ち止まってその気持ちを手に取って考え直してみることも大事だな、と社会人になってからも痛感させられた出来事でした。


長々と余談を書いてしまいましたが、そんな大好きな母校に合格する前のエピソードを続けて書いていきます。




第一志望校

 そこから私は、先生に背中を押された大学を第一志望校に決め、当初志望していた大学を滑り止めに決めて、そこから受験勉強に勤しんだ。

でもずっと頭のなかでは「本当に合格できるだろうか?」と思っていた。

私は、ずっと自信がなかった。

ずっと自分を自分で信じられなかった。

学校に行けるようになっていたのに、また学校に行けなくなる。そんなふうに自分に対して自信がつく前に、逆に自信を失うような結果になってしまうことが多かったから。

 クラスで国語の科目係をしていたため、いつも放課後にはクラス全員分の国語の宿題ノートを先生に持っていっていた。

そんなとある日、国語の先生と職員室でマンツーマンで話す時間ができて、その際に「あなた、志望校はどこなの?」と先生に聞かれた。

「合格できるか分からないんですが、○○大学です」と答えると、「あなたなら、行ける」とハッキリと先生が言った。目を見て、真っ直ぐに。

……言葉って不思議だ。


そう言われると、本当にそうなる気がした。




受験勉強

受験勉強を開始してから、私は割ける時間を全て勉強に注いだ。

クラスには内部進学や筆記試験がない推薦で進学する子も多くいたため、そういった子たちに引っ張られないように、一人で受験勉強を淡々と進めた。

友だちと遊ぶ時間すらも勉強に割かないと合格できないレベルだったので、私はそこから勉強一本の生活になった。


 受験勉強の方法に関しては人それぞれに合ったやり方があると思うので詳細には書かないけれど、とりあえず受験の期間は本当に勉強しかしなかった。

朝起きてすぐに前日に覚えきれていなかった英単語などの復習をする。
さらに不登校時代に覚えきれていない漢字も覚えるように努めた。どんな解答であっても、解答用紙に漢字を書かずに避けられる方法はないから。


ちなみに、今でも覚えきれていない漢字は多く、相変わらず書くのは苦手だ。

歯を磨くときですら英単語を復唱し続ける、ご飯を食べるときも傍には参考書を置いて見続ける。そしてお風呂ではひたすら勉強内容を思い出して復習をする。
塾には夏期講習と週2回で通わせてもらった。


受験勉強を進めるうちに、絶対に第一志望のあの大学に受かりたい!と思うようになって、最後の方はなぜか分からないけれど「私は絶対にあの大学とご縁がある気がする」なんて思うようになっていった。



学校の授業中も、筆箱のなかに単語カードを隠してずっとそれを暗記したり、自分の受験用のノートと参考書を開いて勉強したりしていた。

高校の自習の時間では、一心不乱に受験勉強に勤しむ私の姿に感心した古典の先生が、「過去問をコピーしてきてあげる」と言って、職員室にあるコピー機でA3用紙に問題をコピーして渡してくれた。

この瞬間に、手紙のワンフレーズが脳裏に蘇った。

その手紙は、中学校のときの保健の先生からもらったもの。

(前略)

 "先生は新しい環境で戸惑うことがいっぱいありました。でも、○○(私の名前)ちゃんがいる中学校に行くことも先生にとっては一つの支えでした。

何が言いたいかというと、
そこに存在するということだけでも、誰かの役に立つことがあるということです。

皆 色々な悩みや思いを持って生活しています。
頑張る姿は本当に美しいし、他の人にパワーも与えるよ。
○○(私の名前)ちゃんの前向きな姿に先生はたくさん元気をもらいました。
いつまでも笑顔いっぱいのままでいてください。

本当に卒業おめでとう"
中学校のときの保健の先生からの手紙から一部引用(勝手に載せてごめんなさい、先生)


そうか、私が他の誰かの頑張る姿に刺激をもらうのと一緒で、私も不登校だったあのころ、まるでひっくり返ってしまった虫のように、必死に起きあがろうともがき続けていたあのカッコ悪い姿が、誰かの役に立っていたんだ、と。


15歳で手紙をもらった当時は、「私のそんな姿が、誰かの役になんて……」と勝手に思って、先生からの手紙の内容を素直に受け取れなかった。

でも、15歳から18歳と少し大人になって思い出したとき、そんなことを初めてそこで思えた。


"そこに存在するということだけでも、
誰かの役に立つことがあるということです"

10年以上も前に先生から贈ってもらったこの言葉を、私は26歳になったいまでもお守りのように、ずっと心に覚えている。

やっぱり言葉の力は、すごい。

私もそんなふうに、良い言葉を紡ぎたい。




いよいよ大学受験

 受験日が近くなってくると完全に学校の授業を休んで、試験当日に備えた生活リズムと勉強ルーティーンをこなすようになった。

試験時間に最適な就寝時間を毎日守って、朝食も決めたものを食べて、試験で集中力が保つように全ての問題集を試験時間きっちりで解いた。

受験へのプレッシャーと勉強のしんどさで、窓の外を見て「受験って、辛い(涙)」と一瞬だけ泣いたのを覚えている。


ほとんどの大人が口を揃えていうように、もう一度 受験勉強をやれ! と言われたら断る、という気持ちがよく分かった。


そんな日々を経て、いよいよ大学の受験日がやってきた。

滑り止め&試験慣れのために受けた大学は、模試の時点でもA判定で落ち着いて受験できたこともあり、結果は無事に合格だった。




そして、本命の大学の試験日。

緊張しながらも、大丈夫だと心を落ち着かせて試験に挑んだ。

不登校だった7年間でこぼれ落ちている漢字。

日本語で答える問題は、どんな解答であっても必ず漢字を書かなければならない。日本人である限り漢字からは逃れられない。でも、入試本番で出題された漢字の問題はほぼ全てちゃんと書けた! やった!


そして小論文では、これ文字数がオーバーする……? と思いながらも必死に制限時間と睨めっこして書いていたら、書き終えた「。」がピッタリと最後の枠に収まった。ギリギリセーフ。

英語は、正解が分からないものや、もう消去法でこれしかない……!と選んだ問題が多かった。

試験後は、大丈夫かなと思いながらも、でも全力を出し切ったからあとはもう結果を待つのみだった。



受験日の翌日

 全力を出し切って本命の受験を終えた翌日、38度の熱が出た。

なんだか頭がぼーっとして熱っぽいなと測ったら本当に熱が出ていた。頭がオーバーヒートしたのかも知れない。1年近く、ずっと頑張って気合いで溜め込んでいた疲れがどっと出た瞬間だった。




合格発表

試験日から何日間か経ったあと、高校からの帰り道にスマホの電源をつけたら父からメールがきていて、その件名が「サクラサク!合格おめでとう!」だった。

まさかの件名でネタバレ!? と思いながらも、やった!受かった!とその場で思わず叫んだ。


家に帰って、実際にその合格通知と入学手続きの書類が入った封筒を自分の部屋で手にした瞬間、私は声を出しながら泣いた。

不登校7年間のブランクを経て、しんどいながらも通った高校生活を経て、自分が一番行きたいと感じた大学に合格できたのが嬉しかった。


当時の自分からは全く想像もできないことだった、

そして当時の周りの誰からですら、全く想像できないことだった。


塾のE先生にもさっそく報告をしたら「自己採点のときから、これは受かったなと思ってたけど、本当によく頑張った。おめでとう!」と言ってもらえた。さらに「不登校の時から考えると本当に信じられないほど感慨深いね」とお互いに言いながら、E先生に心の底からありったけの感謝の言葉を伝えた。


……ちなみにこれは後日談だけれど、私の合格発表があった日、父は車の信号待ちで思わず一人 男泣きをしたらしい。

母は、合格を知って思わず泣きながら、そして笑っていた。


あぁ、私はずっとその姿が心の底から見たかった。
私のことで笑って喜んでくれている両親の姿が、何よりも一番嬉しかった。

やっと、やっと見ることができた。


ずっとずっと、本当にごめんなさい。
でも、ずっとずっと、ありがとう。


高校を卒業

 受験が終わり、大学が決まり、そして高校生活が終わろうとしていた。

色んな思いを抱えながら、笑ったり、泣いたり、しんどかったり、楽しかったり、悲しかったり、嬉しかったり。


色んな経験を通して、私の高校3年間は幕を閉じた。

卒業式の日、私はどんな心境だったんだろう。

あまり覚えていないのだけれど、でもなんだか色で表すなら、真っ白に近い気持ちだったような気がする。

卒業であり、やっとスタートのような、そんな感覚だった。

やっと夜明けのような、そんな感じだった。


不登校7年、高校3年間。


まだまだ、これからだ。


次は大学の4年間。


次回からは、大学生編(TOEIC470点レベルから、学部内成績トップ25位以内に入るまで)を更新していきます。


次回は #20 いよいよ大学入学!! なんと周りは帰国子女だらけ?【7年間の不登校から大学院へ】を更新予定です。

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