『草枕』論5:画になる憐れ
『草枕』論を考えていると思考方法には大きく分けて二つのパターンがあるように思う。
ひとつは言葉で考えるタイプもうひとつはイメージで考えるタイプ。
漱石は語学に関しては申し分ないと同時にイメージ思考も並外れた能力も持ち合わせているようだ。
漱石の職業の第一志望が建築であったことを考えれば納得できるのである。
設計図の構想はイメージで考え、その手順の殆どは言葉で説明できないとかんがえられる。
出来ない事はないが膨大な量になりまた説明する言葉自体が存在していないのである。
人間は最終的には長さと言う数字(言葉=シニフィアン)で設計を行うだろう。
しかしいちいちシミュレーションをしていては時間がどれほどあっても足りないことになる。
例えば画とか彫刻はコンピューターで描写を行うのでなければイメージでおこなうことになる。
千分の何ミリという数字(言葉=シニフィアン)といっても人間は判別できないでしょう。
また色の分別といっても人間に認識できる数はたかが知れている、コンピューターは何万色を数字で区別する。
その何万という数字(言葉=シニフィアン)から色を人間が特定(シニフィエ=意味)できるだろうか、だから画家はイメージで判別していると思う。
同じことを漱石は『草枕』で「昔から小説家は必ず主人公の容貌(ようぼう)を極力描写することに相場がきまってる。」が言葉で表現されたその心理を読む人が理解できるか疑問であると次のようにいう。
「普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探(さ)ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤(じんじかっとう)の詮議立(せんぎだ)てをしては俗になる。古今東西の言語で、佳人(かじん)の品評(ひんぴょう)に使用せられたるものを列挙したならば、大蔵経(だいぞうきょう)とその量を争うかも知れぬ。」といい。
ここで漱石が言いたいことは言葉で人間の心理をどれほど緻密に細分化したところで読む人が理解できるだろうか、読む時間があるだろうか、読む人の一生をかけて他者の一生を知ることに意味があるだろうかと問う。
AIは計算で結果を出すことが出来ても予想で済ますことが出来れば予想することで時間を短縮することを選ぶのである。
イメージで考えたり表現すれば一瞬で伝えることが可能であればイメージを選べばよい。
言葉(シニフィアン)とイメージ(シニフィエ)は不二の関係にある。
漱石は言葉とイメージのトレードオフの関係は現代で言えば無駄な思考は極力避け簡単明瞭なグラフや図形、チャートで表現せよと次のようにいう。
「土をならすだけならさほど手間(てま)も入(い)るまいが、土の中には大きな石がある。土は平(たい)らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。」と表現する。
上の文は言葉の羅列でイメージ的に無駄な作業や不必要な考えを否定的に表現したものであり読む人はそれを意味に変換するのである。
とくに『草枕』は詩的表現や無意味な言葉の羅列が多いがイメージとして理解しなければならない。
例えばつぎの『草枕』の一節は理解不可能な文だといってよい自然界にはありえない意味である。
「雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句(あげく)は、流れて雲に入(い)って、漂(ただよ)うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡(うち)に残るのかも知れない。」
ラカン流にいえばシニフィアン(言葉)の羅列によって生まれる隠喩ということになる。
新しい意味の創造である漱石ほど新造語の多い作家は居ないと言われていることからも解るようにイメージ操作が得意であった。
想像界は漱石にとっては自由無碍な世界であった
これは面白い表現で意味は「憐れ」を表現しているとかんがえられて、『草枕』の最後の「憐れ」を予告している。
それでは何故雲雀が自由を謳歌して飛び回るのが「憐れ」なのか、那美さんの「父母未生以前」の家系を暗示しているのだ。
何代か前のお嬢さんとよばれる那美さんの家系は「登り詰めた揚句」「消えてなくなって」今と成っては空しい噂が「残るのかも知れない。」
このように理解すると『草枕』として一貫性と統一性をもった作品として完成するのである。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。