myonter

大衆芸能と「水カステラ」をこよなく愛する兼業主夫です。京都市下京区に住み、大阪府吹田市の小さな女子大に勤務しています。生活信条は「腹八分目」、政治信条は「反排外主義」。主に「落語」についての文章を掲載していきます。

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    • 私と落語

      子どもの頃からの落語好き、いまは前期高齢者。うすれいく記憶を辿りながら、これまで出会った落語家との私的な思い出を綴ります。

    最近の記事

    記憶の中の落語家【8】二代目桂枝雀【*】

     4月から始めたこのシリーズ、「テレワーク」中の気晴らしとして始めたのであるが、いったん区切りを付けることにする。というのも、私の職場(私立女子大学)では6月1日(月)からの「対面授業再開」を決定したためテレワークも終了となるのだ。個人的には、少なくとも前期終了までは「遠隔授業」を継続すべきと思うが、意思決定の場から離れた身には従うしかない。  さて、トリに登場するのはこの人しかないであろう。米朝に入門して「十代目桂小米(こよね)」を名乗るのが1961年4月のこと、「二代目桂

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      • 記憶の中の落語家(7)三代目桂文我【*】

        [画像は、前田憲司『桂文我』(喜迴舎、1995年)より引用)]  私がこの連載で取り上げているのは、原則として自分が生で見た落語家かつ鬼籍に入られた方を対象としている。1954年生まれの私が生の落語を楽しんだのは、高校時代の落語研究会(1970年4月〜1973年3月)の活動で仲間と通った道頓堀・角座での3年間である。その後、落語をライブで楽しむことを再開したのは、今の職場に赴任した2004年以降のこと、なんと30年間の空白がある。その中で、例外的に生の高座に立ち会ったのが、

        • 記憶の中の落語家(6)四代目桂文紅【*】

          [画像は、四代目桂文我編『桂文紅日記 若き飢エーテルの悩み』(青蛙房、2009年)より]  私が高校落研時代(1970-73)に通っていた道頓堀角座、そこで生で聴いた落語家として、すでに松鶴・米朝・春団治を取り上げた。同じ頃に生で聴いた落語家を思い出すと、森乃福郎・桂米紫・笑福亭花丸・桂文紅・桂文我・桂扇朝(歌之助)...。その中から、今回は桂文紅を取り上げる。  立命館大学卒業の上方落語界初の「学士落語家」であり、「青井竿竹」というペンネームで放送作家としての仕事もしてい

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          • 記憶の中の落語家(5)二代目露の五郎兵衛【*】

             上方落語四天王を生年順に並べてみると、六代目笑福亭松鶴(1918年8月17日 - 1986年9月5日)・三代目桂米朝(1925年11月6日 - 2015年3月19日)・三代目桂春団治(1930年3月25日 - 2016年1月9日)・五代目桂文枝(1930年4月12日 - 2005年3月12日)となる。この四天王と同時代に活躍した上方落語家と言えば、やはり露の五郎兵衛(1932年3月5日 - 2009年3月30日)の名前を最初に挙げないといけないだろう。年齢的には笑福亭松之助

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            記憶の中の落語家(4)五代目桂文枝【*】

             私が落語を生で楽しみだしたのは、高校時代の落語研究会の活動(1970年4月〜73年3月)からである。当時関西に定席はなく、せいぜい道頓堀角座で年に数回開催される落語会が楽しみであった。松竹芸能の拠点であるから、プログラムは松竹所属の芸人中心の番組となる。それもあって、上方落語四天王の中で文枝(当時は小文枝)だけは生で聴いたことがない。吉本の所属ゆえ普段の舞台は花月、吉本新喜劇が苦手な私は(花紀京は別格)花月へ足を運ぶことはなかった。同じ理由で、当時絶頂の笑福亭仁鶴も生で聴く

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            記憶の中の落語家(3)三代目桂春団治【*】

            (画像は、『三代目 桂春団治』(弘文出版、1996年3月15日)より)  落語に興味のない方にも知られている落語家の名前、「桂春団治」はその最たるものであろう。映画「世にも面白い男の一生 桂春団治」、長谷川幸延/富士正晴の小説、松竹新喜劇、歌謡曲(浪花恋しぐれ)、落語以外の様々なアプローチが用意されている。だが、私の場合はあくまでも三代目の高座が最初、そこから小説を読み寛美の舞台を(テレビで)見た。そのネームバリューは、上方落語四天王の中でもずば抜けている。  松鶴・米朝に

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            記憶の中の落語家(2)三代目桂米朝【*】

             桂米朝との出会いは、やはり子どもの頃のテレビであった。既にその段階で「落語家」というよりも、幅広く活躍する「タレント」であったと思う。寄席番組の構成、ニュースショーの司会、画面に登場しない日は無かったのではないだろうか。  高校入学後、落研に入ってからは、松鶴同様に道頓堀角座で何度か聴いている。記憶に残っているのは、何と言っても「地獄八景亡者戯」。70年代前半のこと、師は40代後半で気力体力充実した時期、1時間を越える長講にぐいぐいと引き込まれた。次に「佐々木裁き」、「鹿政

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            記憶の中の落語家(1)六代目笑福亭松鶴【*】

             私は1954年に生まれ、1973年(=第一次オイルショック)に高校卒業、まさに高度経済成長と軌を一にした世代である。「エネルギー革命(石炭→石油)」と「燃料革命(薪炭→LPガス)」の同時進行は、目に見える形で生活を豊かにしてくれた。家庭には、プロパンガス・炊飯器・洗濯機・冷蔵庫と消費生活の大きな変化が訪れたが、何よりもテレビの登場は、大衆文化の普及に大きな役割を果たした。私の生家は田舎の貧しい寺、周囲より遅れてやって来たテレビは白黒の中古品、それでも連日食い入るように見たも

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            「私と落語」 はじめに

             1954年11月生まれの私は、2020年3月31日をもって職場を定年退職となった。もっとも、諸般の事情により新しい契約を結んで4月以降も通うこととなったが。とは言え、人生の大きな節目を迎えたことには変わりない。そこで、来し方を振り返り行く方を展望する作業を、この場を利用して始めることにした。  敬愛して止まない桂米朝師の『落語と私』は、1975年=師が50歳の時に発行された落語関連本の中の古典的名作である。「愛読書は?」と問われれば、迷うことなくこの書を挙げる。来し方を振り

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