見出し画像

記憶の中の落語家(3)三代目桂春団治【*】

(画像は、『三代目 桂春団治』(弘文出版、1996年3月15日)より)

 落語に興味のない方にも知られている落語家の名前、「桂春団治」はその最たるものであろう。映画「世にも面白い男の一生 桂春団治」、長谷川幸延/富士正晴の小説、松竹新喜劇、歌謡曲(浪花恋しぐれ)、落語以外の様々なアプローチが用意されている。だが、私の場合はあくまでも三代目の高座が最初、そこから小説を読み寛美の舞台を(テレビで)見た。そのネームバリューは、上方落語四天王の中でもずば抜けている。
 松鶴・米朝については、子どもの頃のブラウン管(!)での記憶が鮮明であるが、三代目についてはほとんどない。やはり、高校時代に通った道頓堀角座(1970年〜72年)での出会いが鮮烈である。派手な高座着で舞台に登場するとまず客席に深々と一礼、座布団に座っても深く頭を下げ、マクラはほとんど振ることなく、羽織をシュッと脱いでネタに入る。この一連の流れの綺麗なこと、これこそが三代目である。
 ネタの少なさはつとに有名、50周年記念写真集(1996年3月15日、弘文出版)の裏表紙に記されているのは、いかけ屋・祝いのし・お玉牛・親子茶屋・子ほめ・皿屋敷・代書屋・高尾・月並丁稚・野崎詣り・寄合酒、計11席。もちろん、他にも演じられたものはあるが、普通の席で聴けるのはこの中のどれかであることにほぼ間違いない。実際、私は全て聴いている。そのそれぞれに三代目でしか出せない空気・艶がある。「いかけ屋」の昔の職人と小憎たらしい悪ガキとのやり取りは、昭和以前の風俗がくっきり。「お玉牛」の農村での労働風景と夜這いの習俗、「野崎詣り」の「肥を運ぶ舟」によるハレとケの対比、中でも「皿屋敷」のお菊の幽霊姿の見事なこと。踊りの素養に支えられた所作の美しさはとくに立ち姿に顕著、このネタに関しては三代目に極まる。
 とは言え、高校生の頃には「いつも同じネタばかり」との思いがあって、さほど高く評価していたわけではない。しかし、加齢と共に枯れてくる落語家の多い中、いったんネタに入ると俄然本来の艶が輝き出す。その芸を理解するには聴く側の成熟を必要とする、そんな芸人でもあったのだ。
 大学入学・結婚・大学院・単身赴任、いったん離れた落語との縁が復活したのは、いまの職場に移った2004年のこと。当時の記録を見てみると・・・

極付十番落語会 三代目桂春団治」(初日,2006年3月29日,ワッハホール)


桂春団治『子ほめ』
 相変わらずというのは,この場合ほめ言葉です.年齢も重ねられて皺も増えましたが,相変わらずきれいな舞台です.21分.

第290回市民寄席(2008年5月16日、京都会館第2ホール)

桂春団治「祝のし」
来年で襲名50年だとか、感無量です。四天王もちゃんとした話が聞けるのはこの人だけ、それだけに声の張り・艶の衰えは(当然とはいえ)寂しいですね。ま、50年頑張ってこられたのですから、かつての姿と比較できるほど聴いて来られたことに感謝すべきかも知れません。25分。

第300回市民寄席(2010年5月8日、京都会館第2ホール)

野崎詣り(桂春団治)
昭和5(1930)年3月生まれですから、三代目も満80歳。さすがに声は出なくなっていますが、相変わらずのきれいな高座姿です。冒頭に50周年・300回の挨拶を入れ、ネタもきちんと季節を合わせくれています。私自身若い頃は、この人はネタが少ない=稽古に不熱心などときめつけて、決して好きではありませんでした。しかし、当夜のネタはかつて何度も角座で聞いた噺、それを(表面的には)少しも変わることなくやりきれるのはやはり芸。米朝師が実質的に噺ができなくなっていますから、四天王の最後として一日も長く続けてほしいですね、25分。

 振り返ってみると、三代目を最後に聴いたのは10年前、そして鬼籍に入られたのが2016年1月9日。今となっては、三代目の高座を知らない落語家も増えたことだろう。最後に、YouTube からその艶姿を偲ぶことにしよう。

 

【*】略歴(Wikipediaより)

3代目 桂 春団治(かつら はるだんじ、1930年3月25日 - 2016年1月9日)は、落語家。本名:河合 一(かわい はじめ)。大阪府大阪市出身。旧字体を春團治。所属事務所は松竹芸能に所属していた。上方落語協会会員(相談役、第3代会長)。出囃子は『野崎』。