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記憶の中の落語家(2)三代目桂米朝【*】

 桂米朝との出会いは、やはり子どもの頃のテレビであった。既にその段階で「落語家」というよりも、幅広く活躍する「タレント」であったと思う。寄席番組の構成、ニュースショーの司会、画面に登場しない日は無かったのではないだろうか。
 高校入学後、落研に入ってからは、松鶴同様に道頓堀角座で何度か聴いている。記憶に残っているのは、何と言っても「地獄八景亡者戯」。70年代前半のこと、師は40代後半で気力体力充実した時期、1時間を越える長講にぐいぐいと引き込まれた。次に「佐々木裁き」、「鹿政談」同様に師の奉行の貫禄と迫力は他の追随を許さない。
 一年浪人の後、1974年4月に大学入学。多分7月頃だったと思うが、落語を聴いたことのない友人数名を誘って、京都府立文化芸術会館の「上方落語研究会」に出かけたことがあった。これは、師が若手を育成するために始めた研究会、まだ駆け足だった桂春若が途中でつまってしまい、「もう一遍はじめからやらせて貰います」ということがあった。後で出た米朝がやんわりと小言を言っていたのを覚えている。ちなみに、この会は桂米二が世話役となって、現在も続いている。
 私の学生時代は、自治会活動・市民運動・子育て・父の介護と、授業など出たことのない毎日。7年間かけて、なんとか卒業だけはさせて貰った。その後、塾や予備校のアルバイトを経て、もう一度ちゃんと勉強したいと大学院に入ったのは1984年(29歳の時)。修士2年・博士3年、奨学金の切れ目と同時に運良くポストを得た。三重県松阪市にあった松阪大学政治経済学部(当時、後に三重中京大学となって現在は廃校)に、「地域社会学」専任講師として拾って貰った。1989年4月、初めての就職、初めての単身赴任。
 初めて貰った夏のボーナス、大型テレビ(当時)とレーザーディスクプレーヤーを購入した。何しろ、それまで我が家のテレビというのは10インチくらいの小さなモノクロ、息子たちに大きな画面を楽しませてやりたかったのだ。レーザーディスク、これは何と言っても桂米朝を見るため。当時、「特選!米朝落語全集」の発売が始まり、しばらく遠ざかっていた落語との再会を果たしたのだ。
 2004年4月、いまの職場=千里金蘭大学(大阪府吹田市)に移ったことから、生落語鑑賞を再開する。すでに、米朝は80歳目前、「いま聴いておかねば・・・」との思いがあったことは否定できない。当時のブログから記録を引っ張り出すと・・・

南座・桂米朝一門会(2004年7月7日,南座)


米朝師は数えで80歳という年齢をどう理解すればいいのか。全盛期を知る私にとっては、息が切れて言葉がとぎれる高座には身を切られる思い。他方、齢80の師の姿を見ることができた喜びも。しかし、七度狐はつらい。もう少しさらったとした噺でよかったのでは。

第16回米朝一門落語会(2005年7月18日,サンケイホール)

「あくび指南」 昨年職場を変わって関西に戻ってから心がけていること,とにかく米朝師の生は可能な限り見ておくこと.今回もその延長線上でチケットを手配したのですが,かなりリラックスムードとお見受けした今日の高座でも,少し間が空くと,本人以上に観客が心配します.

米朝,吉朝の会(2005-10-27)

狸の賽・・・桂米朝
ある意味では高齢を口実に吹っ切れた今の方が芸人らしい味わいがあるのかもしれません.座っていたのは11分で噺も飛んでいましたが,私の後ろの席の若いカップルの『見られただけでええわ」という発言が,多くの方の率直な感想かも.

桂米朝一門会(2005年11月2日,長岡京記念文化会館)

・桂米朝「鹿政談」ここ2年くらいではもっともきちんとした高座かと.しかし,少し間が空くと会場全体が息を詰めているのがわかります.17分.

 結局、私が出会った米朝最後の高座は2005年11月2日の「鹿政談」であった。

 私の書棚には、米朝師の著作は(ほぼ)揃っている。その背表紙の並びを眺めているだけでも、その仕事の大きさに圧倒される。新旧米朝全集の解説は、私の常識の多くを形づくってくれた。

 懐かしい第一回「枝雀寄席」【**】の師匠と弟子の対談を、youtube から拝借。


 書籍・音源・映像、そして多くの弟子の育成と、上方落語の復活と隆盛の基礎を築く大車輪の活躍。司馬遼太郎は「米朝さんを得た幸福」と表現しているが【***】、稀代の落語家・芸能研究家と同時代に生きることが出来たこと、私にとっては「至福」としか言いようがない。

【*】略歴(Wikipediaから
3代目桂 米朝(かつら べいちょう、1925年(大正14年)11月6日 - 2015年(平成27年)3月19日)は、日本の落語家。本名、中川 清(なかがわ きよし)。出囃子は『三下り鞨鼓』、『都囃子』。俳号は「八十八」(やそはち)。所属は米朝事務所。 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。
旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身。1979年(昭和54年)に帝塚山学院大学の非常勤講師を務めた。1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。尼崎市に住んだ。

【**】枝雀寄席(Wikipediaから

枝雀寄席(しじゃく・よせ)はABCテレビ(朝日放送)で1979年9月から1999年4月まで全246回にわたって放送されたお笑い番組である。

桂枝雀が司会を務め、朝日放送のテレビスタジオ、またはABCホール(大淀社屋時代)で公開収録、または生放送をしたもので、基本的に毎月1回のペースで開始当初は1時間、1988年4月以後は「フリーチャンネル」(基本第2金曜深夜=土曜未明)で2時間放送された。

番組は開始当初は枝雀とゲストの著名人を交えての対談と、枝雀による落語の2部構成。2時間に拡大されてからは対談、落語、大喜利の3部構成となり、落語は枝雀と、枝雀一門の弟子の落語をそれぞれ1本ずつ放送した。また大喜利も枝雀一門の弟子5-6名程度が出演した。対談は上方落語・漫才に限らず、作家、俳優など多方面からゲストを招待。第1回ゲストは枝雀の師匠でもある桂米朝であった。



【***】

桂米朝『米朝ばなし』(1984年、講談社文庫版解説)