見出し画像

記憶の中の落語家【8】二代目桂枝雀【*】

 4月から始めたこのシリーズ、「テレワーク」中の気晴らしとして始めたのであるが、いったん区切りを付けることにする。というのも、私の職場(私立女子大学)では6月1日(月)からの「対面授業再開」を決定したためテレワークも終了となるのだ。個人的には、少なくとも前期終了までは「遠隔授業」を継続すべきと思うが、意思決定の場から離れた身には従うしかない。
 さて、トリに登場するのはこの人しかないであろう。米朝に入門して「十代目桂小米(こよね)」を名乗るのが1961年4月のこと、「二代目桂枝雀」を襲名したのが1973年10月のこと、福團治(小春)・枝鶴(光鶴)との同時襲名は当時大きな話題となった。しかし、既に何度も記しているように、私がこのシリーズで取り上げているのは、高校生の落語研究会時代(1970年4月〜1973年3月)のこと、それ故、私にとっての想い出は「小米」時代のこととなる。
 当時、大阪の朝日放送では23時台のローカル番組として、上方の落語家を起用する番組があった。その一つとして、番組名は忘れてしまったが大学・高校の落研が日替わりで登場する番組があり、我が県立伊丹高校落語研究会にもお鉢が回ってきた。司会は桂春蝶(先代)と小米、春蝶が進行役で小米がゲストに絡むという役回りである。当日の収録はABCホール(当時)だったと思うが、観客から題を頂いてのやりくり川柳のようなものであったと思う。簡単な打合せの後すぐに本番、記憶に残っているのは「飛び出すな 車は急に止まれない」という交通標語がお題として出され、私が「スキー場 初心者急に止まれない」とまずやって、そこそこ受ける。続いて手を上げて、「スケート場 初心者急に止まれない」とやって、「おんなじやんか!」と突っ込まれ、最後に「ローラースケート場 初心者・・・」とやったところで張り扇でどつかれる、ま、観客には友人達が応援に来てくれて大いに盛り上げてくれたことである。収録後は放送局の記念品と「奨学金」をいただいて帰路についた。因みに、この番組は翌週で打ち切りとなったが、私に原因があったかどうかは定かでは無い。
 こんな番組収録には、時々放送局から連絡を頂いて何度か出かけたことがある。あるときは、森乃福郎(先代)の司会の番組で芸人が二つに分かれて対抗戦形式の大喜利であった。いわゆる「三題噺」のコーナーで、一つは「まめ」という言葉、あと二つは失念したが、小米が抜群の冴えを見せていた。大坂から江戸へ修行に出た職人が、父の危篤の知らせで急いで大坂へ戻るが臨終に間に合わなかった。途中、足に「まめ」をつくっての急ぎ旅であったが、周囲から「あんた、残念やが手遅れやったな」「いや手遅れやおまへん、足が遅れたんや」。
 落語として記憶しているのは、多分道頓堀角座での高座と思う。当時は、ネタそのものよりも「マクラ」がとても斬新で、落研連中の注目が集まっていた。後に何度も聴くことになるが、神戸空襲の時に家族で逃げるときの様子は、当時は涙を催した。というのも、小米というのは当初は米朝の生き写しと言われたほどのきっちりとした知的・静的な芸風で、聴く側は「笑う」というより「頷く」という聴き方であったのだ。
 一浪の後大学入学、それ以降は落語とは一定距離が離れてしまった。しかし、朝日放送「枝雀寄席」の始まったのが1979年9月のこと、この番組は最初から(ほぼ)欠かさず見ていたはずである。やがて、病気との闘い、そして自死の選択、他界・・・。
 今の職場に移ったのが2004年4月のこと、立地は吹田市であるが校舎の北側はすぐ箕面市となる。社会連携の仕事を担当していたので、吹田市や箕面市の各種委員との関わりが多かった。その一つに、箕面市メイプル文化財団の「評議員」を長い間務めさせていただいた。多分、初めての会合の時であったと思う、私が会議室に入って先に来られた方々に帽子を取って会釈すると、大層驚かれたことがある。実は、その中に米朝一門のホームグラウンド・サンケイホールで長年お仕事された方が居られ、「一瞬、枝雀さんが入ってこられたかとおもいました」と。そう、私は髪の毛の具合と顔の輪郭、表情、それらを総合して「枝雀さん!」と驚かれることが、再三再四であったのだ。

【*】略歴(Wikipediaから引用

2代目 桂 枝雀(かつら しじゃく、本名:前田 達(まえだ とおる)、1939年(昭和14年)8月13日 - 1999年(平成11年)4月19日)は、兵庫県神戸市生まれの落語家。3代目桂米朝に弟子入りして基本を磨き、その後2代目桂枝雀を襲名して頭角を現す。古典落語を踏襲しながらも、客を大爆笑させる独特のスタイルを開拓する。出囃子は『昼まま』。実の弟はマジシャンの松旭斎たけし。長男は桂りょうば。師匠米朝と並び、上方落語界を代表する人気噺家となったが、1999年3月に自殺を図り、意識が回復することなく4月19日に心不全のため死去した。