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記憶の中の落語家(5)二代目露の五郎兵衛【*】

 上方落語四天王を生年順に並べてみると、六代目笑福亭松鶴(1918年8月17日 - 1986年9月5日)・三代目桂米朝(1925年11月6日 - 2015年3月19日)・三代目桂春団治(1930年3月25日 - 2016年1月9日)・五代目桂文枝(1930年4月12日 - 2005年3月12日)となる。この四天王と同時代に活躍した上方落語家と言えば、やはり露の五郎兵衛(1932年3月5日 - 2009年3月30日)の名前を最初に挙げないといけないだろう。年齢的には笑福亭松之助(1925年8月6日 - 2019年2月22日)の方が上だが、入門時期は五郎兵衛の方が早く、一門形成という観点から見ても妥当である。

 初代露の五郎兵衛とは江戸時代前期の京都で活躍した人物で、大阪の米沢彦八・江戸の鹿野武左右衛門とともに職業落語家の祖とされる。本稿における露の五郎兵衛はその二代目であるが、名跡については以下のような変遷を辿っている【**】。

1. 桂春坊(1947年二代目桂春団治に入門 - 1960年)
2. 2代目桂小春団治(1960年 - 1968年)
3. 2代目露乃五郎(1968年 - 1987年)
4. 露の五郎(1987年 - 2005年)
5. 2代目露の五郎兵衛(2005年 - 2009年)

 亭号が「桂」から「露の」に変わったのは、吉本興業への移籍によるものであろう。松竹由来の春團治では、ちと具合が悪かったと想像される。以下の叙述については、簡便のために「五郎兵衛」と統一して略記する。


 残念ながら、私が落語に通い出した高校落研時代(1970年4月〜1973年3月)は道頓堀角座しか知らず、すでに松竹芸能を離れていた五郎兵衛の高座は(多分)直接には知らない。ただ、当時交流のあった兵庫県立宝塚高校落語研究会から五郎兵衛に入門した方(露の団平→慎悟、故人)が居られたことや、高校生活最後の文化祭で盟友・磯田浩平(磯田宥海***、故人)が五郎兵衛のコピーで「真景累ヶ淵」の冒頭を演じたことを思い出すと、なにがしかの縁を感じる。
 そんな五郎兵衛への関心が強まったのは、近年になって六番弟子・露の新治との交流が始まったことがきっかけである。新治は、上野鈴本演芸場お盆興行において中トリを任せられることで東京の落語好きにはよく知られた存在である。中でも、2013年6月三田落語会での「大丸屋騒動」の評価が高く、それをいくつかのブログ記事で見たことから遅まきながらその存在を知った。同年10月12日(土)「第4回露の新治寄席@天満天神繁昌亭****」ではじめて生で聴くことができ、それ以来、サボりながらも追っかけを続けている。
 このような経緯があって、改めて五郎兵衛という落語家への関心が深まり、著作や音源を求めた。興味深いのは、上の写真にあるように著作の大部分は「露の五郎」時代に出版されている。露乃五郎から露の五郎と改名したのが1987年、50代半ば、最も元気な頃であったのだろう。
 さて、五郎兵衛とはどんな落語家であったのか、この点については新治のことを『上方芸能(No.192、2014年)』に寄せた文章を再掲しよう。

『上方芸能』192号「私の芸能肩入れ談」
江戸風味の上方落語
千里金蘭大学教授 寺口瑞生
 落語を聴いて50年、関西人故これまでは上方落語一辺倒。しかし、近年の東西交流の活発化によって、江戸落語に触れる機会が増えたことは素直に嬉しい。そんななか、江戸の落語ファンによって、これまでほとんど知らなかった上方の噺家に出会うことができた。露の新治師、その人である。
 紆余曲折ののち露の五郎兵衛師に入門して30余年、ここ数年は柳家さん喬師との共演で江戸の落語ファンの間で人気急上昇。いわば逆輸入の形で拝聴、初めてその高座に接したときの感動を拙ブログに「容姿端麗・眉目秀麗、所作は鮮やか口跡爽やか」と。
 「中村仲蔵」「柳田格之進」「井戸の茶碗」と続けば、江戸落語を代表する大ネタばかり。それを、江戸の噺家以上に意気に語り、上方の匂いを消すことなく粋に下げる。師匠である露の五郎兵衛が林家正蔵(彦六)らとの交流で持ち味のひとつとした江戸風味、それをしっかりと受け継ぐ頼もしい存在。
 新治師は、これまで自身の夜間中学設立運動の経験から、人権問題の講師として全国を駆け巡ってこられた方。いまは講演に落語を加える「お笑い人権高座」として、新たな落語ファンの開拓にも貢献されている。おおらかな笑いこそ健全な社会のバロメーター、何やらおかしな近頃の日本、いまこそ笑いのパワーを再評価。ぜひ多くの方に、露の新治師の噺を聴いていただきたい。
 師匠、出番ですよ!


 つまり、五郎兵衛の上方落語史における役割とは、若い頃から東京の落語界と交流し、林家正蔵(彦六)から受け継いだ「怪談噺」を上方に伝えたことがあげられる。これはいまも、弟子の団四郎・新治によって大事に受け継がれている。
 もう一点強調していいことは、「川柳」を巧みに詠みかつ落語に活かしたことであろう。件の「大丸屋騒動」では「かにかくに祇園はこひし 金は無し」「盛り塩が ひざをくずして夜がふける」といった自作の句を噺の世界への導入として実に上手く活かしている。「鹿政談」では「天平の甍をぬらす 時雨かな」、奈良・平城京の雰囲気を感じさせる秀句である。もっとも、このあたりは五郎兵衛で聴いたのではなく、それを受け継ぐ新治の高座で覚えたことだが。

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(北野天満宮境内にある初代露の五郎兵衛記念碑)

 初代縁の北野天満宮には露の五郎兵衛記念碑が建立され、毎年秋には一門による「もみじ寄席」が開催されている。命日の3月30日には天満天神繁昌亭で追善落語会(今は一門会)開かれてきたが、残念ながら今年はコロナ渦のために中止となってしまった。果たして来年は、無事開催されるだろうか・・・。

【*】【**】Wikipediaより

2代目 露の五郎兵衛(にだいめ つゆの ごろべえ、1932年3月5日 - 2009年3月30日)は、落語家、大阪仁輪加の仁輪加師。本名: 明田川 一郎(あけたがわ いちろう)・・・

【***】きっと、仏さまはここにいる

【****】第四回露の新治寄席、素晴らしい!