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記憶の中の落語家(4)五代目桂文枝【*】

 私が落語を生で楽しみだしたのは、高校時代の落語研究会の活動(1970年4月〜73年3月)からである。当時関西に定席はなく、せいぜい道頓堀角座で年に数回開催される落語会が楽しみであった。松竹芸能の拠点であるから、プログラムは松竹所属の芸人中心の番組となる。それもあって、上方落語四天王の中で文枝(当時は小文枝)だけは生で聴いたことがない。吉本の所属ゆえ普段の舞台は花月、吉本新喜劇が苦手な私は(花紀京は別格)花月へ足を運ぶことはなかった。同じ理由で、当時絶頂の笑福亭仁鶴も生で聴く機会を逃していた。
 テレビ/ラジオでしか知らない文枝の魅力、それは何と言ってもあの粘り気のある語り口にある。「船弁慶」の「雀のお松/雷のお松」に代表される女性の立て弁の見事さは、艶と柔らかさが相まって他の追随を許さない。他方、元来踊りの師匠としての先代文枝へ入門したくらいの踊り好き、それが活かされる「天神山」に代表される所作もこれまた見事。生でその高座を観ていないのは、返す返すも残念である。

 そんな文枝を思い出すべく、著書『あんけら荘夜話』(青蛙房、1996年6月25日)を取り出した。これは、文枝の語りを小佐田定雄がまとめたもの。文枝個人の生涯だけでなく、戦後上方落語史ともなっている貴重な記録である。
 詳細は本書を読んでいただくこととして、五代目文枝の芸の成り立ち、そして後輩との関係などを拾い読みしてみよう。
 文枝の落語界入りのきっかけは、1947年に大阪市交通局へ入ったことである。そこには、アマチュアながら桂米團治の弟子である桂米之助(=矢倉悦夫)が勤めており、彼に「踊りの師匠を紹介してくれ」とのことから四代目桂文枝の元に通うことになる。その後、改めて噺家として入門し、師匠の前名である「桂あやめ」という名をもらう。初舞台は「小倉船」、前座話ではないがそこは踊りの稽古が先にあったのでこのネタになったとのこと。
 戦後の定席として「戎橋松竹」が誕生するが、この後上方落語界は二つに分裂する。「新生浪花三友派」として、二代目春団治・花月亭九里丸が袂を分かつ。この時、四代目文枝も行動を共にするが、弟子であるあやめは「こっちに残って落語を勉強します」と応え、五代目松鶴に預けられることになる。この件が、文枝の落語の方向性を決定したことになるのだろう。
 四代目文枝は、噺は軽くやってその後踊るというスタイルであったそうだ。それ故、落語の稽古は主に橘家花橘に教えてもらったとのこと。ただし、それに飽き足らず、五代目松鶴にだんだんと傾倒するようになる。後の十八番となる「天神山」、これは五代目に直接教わったネタ。また、五代目の亡くなる直前に教わったのが「植木屋娘」であった。五代目の死後、少し時間が経ってから取り組んだのが「天王寺詣り」、代々の松鶴のお家芸であるが「この噺については、私は絶対に五代目の呼吸で演らしてもらっているという自信を持っています」(同書、p.142)とある。つまり、六打目松鶴は言うに及ばず、米朝にも文枝にも五体目松鶴の影響は大変大きかったことを再確認したことだ。


 小文枝襲名が1954年4月、そして文枝襲名が1992年8月、やはり私のようなものには「小文枝」が親しみやすい。そんな小文枝が自分の弟子はともかく、他の一門の若手とどのような関係を持っていたか、私にとってはとても興味深い。同じく著作の中から拾ってみよう。
 まず名前の挙がるのが桂小米(のちの枝雀)、1962-3年頃のこととして「天神山」を教えている。その部分を引用してみると、「今でも思い出しますが、おぼえはええしね、稽古してても稽古のしがいのある子でした。非常に素直に覚えてくれるんです」(同書、p.149)。
 次に名前の挙がるのが桂春蝶(先代)、「あと、稽古によく来ていたのは亡くなった春蝶君。売り物にしていた『植木屋娘』は私が教えた噺です」(同書、p.149-50)。
 稽古ではないが名前の挙がるのが月亭可朝、「染丸さんのところをしくじった時に、私がちょっと言うてやったことを非常に喜んで、わりとよくうちへ来ていました」(同書、p.155)。
 笑福亭枝鶴「1970-71年頃、六代目の息子の笑福亭枝鶴(当時光鶴)を預かっていたことがありました。・・・『他持。わしの手におえんさかい、うちの光鶴をあずかってほしいねん』・・・一年ほど通うてましたけど、一年ほどたった時に『帰らして欲しい』と言ってきました」(同書、p.198-99)。 
 笑福亭鶴瓶「よその一門で言うと笑福亭鶴瓶君なんかも『はなし家』としてよくやってるように思えますね。落語に取り組もうという姿勢をちゃんと持っていますからね」(同書、p.294)
 桂南光「そのほかでは桂南光君なんか、うまいですな。私は彼の落語、好きなんですよ」(同書、p.294)。
 長々と紹介してきたが、枝雀以前の小米のファンだった私には、読み進めながら何度も視点が過去に戻ってセピア色の思い出にふけることが出来た。

 さて、文枝没後15年。上方の若手の中には、もはやその高座姿を見たことの無いものも増えていることだろう。例によって、YouTubeからその在りし日の姿を紹介しよう。

 個人的な思いで言えば、文枝と自分の直接的な縁を感じたのは文枝自身の新作落語『熊野詣』である。この噺は2004年4月18日に初演され、それも含めて生前4度の上演がなされた。地域社会学の研究者として『熊野』をフィールドとする私にとっては、何としても聴きたいと思っていたが存命中には叶わなかった。

 実際の高座でこの噺に出会ったのは2015年8月3日のこと、天満天神繁昌亭で開催された「繁昌亭大賞各賞受賞者新作落語会〜故五代目文枝襲名記念日落語会」での桂あやめの口演であった。当日のブログを見ると、

「熊野詣」桂あやめ:文枝の12番目の弟子、入門34年、あやめ襲名からも20年以上経つのですね。師匠の若い頃の名前ですが、彼女にはぴったり。師匠が最後に残した唯一の新作、一門では文太師もやられるが、もっと多くの人が取り組むネタにしたいとの挑戦。その意気やよし、細かなところはともかくも、ネタおろしとしては十分及第点。残念なのは、私自身が文枝の口演を通して聴いたことがないため、あやめさんの工夫が何処にあるのか比較できないところ。帰宅後、早速文枝のDVDを発注。もっとネタを繰って、ぜひ十八番とまで高めて欲しい(37分)。

  上方落語四天王の思い出から綴り始めたこの連載、ともかく週一回のペースは維持できた。当分は stay home が生活の基本スタイル、引き続きこのペースで記憶を掘り出す作業を続けたい。

【*】略歴(Wikipediaから引用

5代目 桂 文枝(かつら ぶんし、1930年4月12日 - 2005年3月12日)は上方噺家(上方の落語家)。本名は長谷川 多持(はせがわ たもつ)。6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝、3代目桂春団治と並び、昭和の「上方落語の四天王」と言われ、衰退していた上方落語界の復興を支えた。

見出し画像は『五代目桂文枝』(監修:長谷川君枝、制作:吉本興業株式会社、2008年)より。