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A STORY

 松尾スズキが『宗教が往く』を書くにあたり、小説というフィクションの約束事を利用するために整えたアリバイは、自意識過剰の産物と言えばそうで、しかしその長いプロローグは含羞のほどをよくあらわすものだ。何様意識に敏感な彼はナンシー関と同い年である。私小説のマナーに則って描かれる初婚の妻とのライフスタイルは、まあヤクザ的であり、当の本人らも一般人に対して少なからずの優越感を覚えていることが見てとれる。そんな彼らが封建的な日本を象徴する田舎の良識をうっちゃろうとして口に含んだアシッドは「ニッポンの小説」の門戸をこじ開けるための潤滑油でもあって、「私」という一人称を消し去る。以下は内田樹が『タカハシさんの生活と意見』(高橋源一郎著)における「タカハシさん」というペルソナの必要性を論じる際に引用したモーリス・ブランショのことばの孫引き。

〈「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つのことばでは、決して中間的なものを名指すことができないのだろう? それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そう。私たちは二人いなければならない。」
「なぜ二人なのだろう? どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「それは同じ一つのことを言うのがつねに他者だからだ。」〉(「内田樹の研究所 2008. 5. 19」)

 『アネット』のイントロダクションでは、いかにもロックスター然としたレオス・カラックスが音響卓の椅子に堂々と陣取り、さっそうとキューを出すと、ロン・メイルが鍵盤を叩き始め、この映画は早くもひとつのクライマックスを迎える。極めてシンプルなバッキングに宿る色気はどうしたことだろう。やがてカラックスを長とするトライブはスタジオを抜け出してアダム・ドライヴァーと合流する。『田園に死す』をはじめ『地獄でなぜ悪い』や、平成中村座のニューヨーク公演など、屋台崩しの舞台はストリートと相場が決まっているが、カラックスはそうした構成のルーティンをひとひねりしてみせる。

〈つまりは『幕末太陽傳』のラスト・シーン。居残り佐平次が薄暗い北品川の海岸を駆けて逃げてゆくその先が知りたいのだけれど、というか、ちょうどその海岸沿い二キロ先にはおれの実家があって、そこでもおれはボウっとし、だれかに想いを飛ばし、あくびをしてなんとか生きのびているという現実もある。佐平次の足跡と一直線上につながってしまうこの運命や、その先に見えてくる錯覚とか勘違いこそがおれの宝物だ〉(『宇宙の柳、たましいの下着』)

 直枝政広の啖呵は鮮やかで、その妄想のたくましさが時空間を一つに結びつける。佐平次が駆けてゆくはずだった品川の街並みは、主役が不在のかたちで冒頭に映し出されるのみだが、未来の観客の貪欲が川島雄三の天才を補う。ペトゥラ・クラークのレコードが六〇年代のロンドンと現在とをスウィッチする『ラストナイト・イン・ソーホー』に顕著なとおり、エドガー・ライトも直枝と同じ幻視力の持ち主で、カラックスもそうだろう。時間の非対称性を現実のものとする映画は「ここではない、どこかへ」と誘うための装置として既に百年もの時を生き永らえてきた。いくら古めかしい前口上がフィクション性を強調しても、けして映画の強度に揺るぎがないことを監督は熟知していて、余裕の体で夜の街に姿をくらます。ボビー・ギレスピーによく似た主人公・ヘンリーが、アネットという「私」に分岐してゆくおとぎ話は、我が子によってモラトリアムを断ち切られる青年の物語でもある。〈愛が恐れているのは、愛の破滅よりも、むしろ、愛の変化である〉というニーチェのアフォリズムを体現するヘンリーのエゴイズムは臆病と裏腹であり、『ソナチネ』の村川の疲労感はその果てに味わわれるものだ。

 「あんまり死ぬの怖がってるとな、死にたくなっちゃうんだよ」

 というセリフは、ダイアローグの名手である北野武にしては珍しく、相方を必要としていない。「順番から言やテメーの番だバカヤロウ」「安心して便所行けるしよ」はもちろんのこと「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」ですら単体でのアピール力はかなり落ちる。小林信彦はたけしにスタンダップ・コメディアンとしての天才性を見出だしたが、こと映画に関する限りは、そのセリフの妙は漫才師ならではのもので、開かれており、自己完結の世界に生きるヘンリーとは一線を隔てている。ステージにおける彼の独り語りのぎこちなさは他者性の欠如によるものでもあるだろう。村川と同様にやがて訪れる破滅は、夢のなかでアンが予見するとおりだ。彼女が後部座席で横たわるリムジンに向かって突進してくるオートバイのエンジン音は、愛憎にもだえるヘンリーの悲鳴である。それを本能的に聞き取ったアンは間もなく殺される運命にあり、皮肉という他ないが、確かな洞察力は娘のアネットにも受け継がれ、やがて父を追い詰めてゆく。文字どおりの人形として登場する彼女の造形は、アイドルの宿命ゆえに、ヘンリーをはじめとする世界中のファンのそうあってほしいという願望を具現化したものだ。「搾取だ!」というモラリストの声はそのまま秋元康の元にも届くだろうが、人は誰もが自分の見たいものしか見ない。

〈ハロプロ曲のヒロインたちは自分が住む町に馴染もうと、言動やファッションに意識を巡らせ、仲間や居場所を作ろうと必死になる。それが恋愛という形を取ることもあるが、彼女たちの一番の目標はその場所で生活していくということだ。地方出身者が多いハロプロメンバーの生き様にも重なる。そのがむしゃらさに自分を重ね、切なくなったり、勇気づけられることもあるが、私が愛してやまないのはその先だ。町から撥ね付けられ、ヒロインが決定的に居場所を失ったその先である。故郷に帰ろうと、止まろうと、別の場所に向かおうと、必ず彼女は町を許す。それは自分が過ごしてきた時間や空間を、恥ずべきものにはしたくない、彼女の誇りからくるものだ。先に進みたいからこそ、彼女は町と和解する〉(柚木麻子「ダ・ヴィンチWeb 2020. 2. 11」)

 柚木のエモーショナルな共闘宣言は、そのまま48グループのドキュメンタリーへの賛辞に代えられるだろう。『悲しみの忘れ方』における生駒里奈は、小学生時に建てられた近所のイオンに百円玉を握っては毎日のように通った頃を振り返り、「聖域でした」と懐かしむ。いじめにあっていたという少女時代に求めた憩いの場は、地方の衰退の象徴として殺風景にも映るが、彼女には切実なもので、実は当時から芸事で身を立てたいと考えていたと終盤で明かされる。以前に七尾旅人が「remix」誌のインタビューで、田舎の商店街が潰れ、ショッピング・モールが濫立する現状に喪失感を覚えるとしながらも、「でも、どういう思いでいるか、わかんないよな。そういう中でも、ドキドキしながら初デートしている子たちがいたりもするわけでさ。(中略)ショッピング・モールで楽しい思い出が作られてくのかもしれない」と、若者たちの新たなリアリティに思いを寄せていた。地方出身者の多い48グループは、こうしたバックグラウンドをおよそ必然的に背負い、憧れを得ている。『僕たちの嘘と真実』のラストシーンでは、渋谷のストリートにメンバーが横一列に立ち並んで、颯爽としていた。お茶の間のテレビを囲んだ歌謡曲の時代は遠く、分断された各層のあいだを、秋元康は二十世紀の芸術である映画と、それによって可視化される少女たちのひたむきさと成長というどこまでもアナクロな武器でもって埋めようとしているかに見えるが、しかし、それは諸刃の剣でもある。『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』の公開時に宇多丸は、映画を賞賛しながらも、岡田有希子の名前を引き合いに出し、アイドルファンの罪を問うてみせた。アネットもそうしたショウビジネスの罠からは逃れられず、次第に疲弊してゆき、映画のクライマックスでは、スタジアムの大歓声に激しく顔を歪めるほどだ。その様をビップルームで見守るヘンリーは思わず口元を押さえるが、涙を浮かべながらも、どこか笑いを圧し殺しているようにもみえる。アンビバレントな彼の加虐性を衆人環視のもとで告発したアネットは、やっとで人間としての肉体を得て〈愛の破滅〉から逃れる。ヘンリーにとっての愛は、ファスビンダーに倣えば、死より冷たいものであったのだろう。それゆえに〈愛の変化〉をどこまでも遠ざけようとしたのにちがいない。蝎と蛙の寓話のように、愛する者すらをも手にかけずにはいられなかったヘンリーの長いモラトリアムはこうして幕を閉じるが、アネットと岡田有希子とを隔てるのは首の皮一枚にすぎない。『ラストナイト・イン・ソーホー』の主人公であるエロイーズが、シックスティーズのロンドンの闇に迷うサンディと共鳴するさまは、シスターフッドの尊さを体現しながらも、同時に、誰とでも交換可能な彼女たちの存在の危うさを示唆してもいた。近田春夫は秋元康をギャンブラーと評したが、賭け金に替えられる数多の青春が、つんく論において、さほど問題視されないのはどうしてだろう?乃木坂とモー娘。のパフォーマンスの相似性は柚木麻子がインタヴューで述べたとおりで、それは平手友梨奈や鈴木愛理についても同じことが言える。

〈批評と誤解を好む、しかるべき意図的なもの〉

 とは直枝政広の「ポップ」観で、それは秋元の作家性を端的にあらわすものでもある。いつかテレビで、工藤静香が彼の人となりをきかれ、おなじみのあの口調で「え~、あのまんまだよお?」と笑っていた。鵺のような秋元の怪物性は、きっとどんな作家にだって描けやしないだろう。少女Aの物語はどこまでも続く。

 

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