植村正美

いがわうみこさんが好きです。ZINE『しびれる指と映画の話を』『これが私の、』発売中。

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大東京万博

 PORINがPORINとして、押井守が押井守としての日常を生きる『花束みたいな恋をした』の東京で、雨宮まみはちがう名前と性格を与えられていた。それでも彼女がモデルであるとはっきりわかるライターの死は、有村架純が演じる絹に衝撃を与える。菅田将暉が演じる麦との付き合い始めに訪れた江ノ島の砂浜を茫然と歩く絹のモノローグが伝える喪失感は、雨宮さんの愛読者が2016年に味わったものだ。  寄る辺ない都市生活において、キラキラと輝くものへの憧れを抱く権利と尊さについて雨宮さんは書いた

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       映画とマンガの違いについて考えるとき、私はいつも松本大洋の『ピンポン』を参照にする。曽利文彦が監督した映画版のキャスティングは井浦新や中村獅童、大倉孝二など、まるで原作の生き写しであるかのようで、主役の窪塚洋介を完全に喰っていたし、音楽は石野卓球、BOOM BOOM SATELLITES、SUPERCARと、今もって輝きの失せることのない鉄壁の布陣である。何より、『ピンポン』というマンガ自体が作者のマスターピースのうちのひとつで、たとえば『ブルーピリオド』や『ブルーロック』

      • デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション

         吉田戦車の『伝染るんです。』にこんなネタがある。子供がスーパーに卵を買いに行くと、〈観賞用のならあるよ〉と店員に言われ、素直にそれをひとパック買うことにする。 〈食べたら死ぬよ〉  というその卵は明らかに腐っており、茶の間のテレビの上に飾られる。カビの生えた畳や土壁の汚れも相まって、部屋の陰気な空気をより濃くしているが、ボロをまとった子供の両親の表情は明るい。 〈部屋の中に卵が飾ってあるだけで、心が豊かになるな〉  親からほめられた子供はうれしそうに笑い、ジ・エンド

        • 祭りばやしが聞こえる

           怒髪天が活動休止を決定したのは96年のこと。99年にバンドを再開するまでのあいだ、ボーカルの増子直純は穴あき包丁の実演販売やリングアナなど、様々な職を経験するのだが、ほんの一時期、友人である大宮イチ(大楽源太)の紹介で露店商の集金係を請け負うことになる。自伝『歩きつづけるかぎり』(音楽と人、2019年)によると、当時の客観的なポジションは暴力団の〈準構成員〉で、もちろん本人の望むところではない。それでも集金袋を手に事務所に顔を出せば、義理人情に厚いトップ格の男がかわいがって

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        大東京万博

          福田村事件

           マーティン・スコセッシの『沈黙』と『戦場のメリークリスマス』の両作品において、精神の自由に殉じる者へと手向けられる歌は、実存を支えるためのよすがであった。それを持たない者には自らの足元を揺るがされる恐怖の言語でしかなく、耳に入れることすら不快であるだろう。温室から響いてくる讃美歌が瀕死のセリアズの元にだけ届いてみえるのは、日本兵らにとって、その真に意味するところが理解の範疇外にあるからだ。春歌を口ずさむ荒木一郎のノンシャランな態度から十数年の時を経て、ここでははっきりと「う

          福田村事件

          その日暮らしは止めて

           労働に疲れた都市生活者の饒舌は半ば必然的に本質論めくことになる。岡村星の『ラブラブエイリアン』や岡崎京子の『くちびるから散弾銃』など、女子だけの宅飲みは即興的に生成される哲学の宝庫であるかのようだ。たとえそれらがダイアローグからコマ単位で切り離されたとしても、アフォリズムとしての訴求力が削ぎ落とされることはなく、今では坂元裕二のファンにも強くアピールするだろう。  『大豆田とわ子と三人の元夫』の主人公である松たか子と同じく、『エドワード・ヤンの恋愛時代』における若い男女もま

          その日暮らしは止めて

          言いたいことはよくわかった

           『ベアゲルター』のコンセプトとして、著者の沙村広明が〈中二テイスト任侠活劇〉とうたうのは、いかにも彼らしい韜晦だろう。裏表紙には〈叛逆ずべ公アクション〉との惹句が踊る。  その物語の舞台となる石婚島は主人公・忍の故郷で、かつては漁業を主要産業としていたが、ドイツの大手製薬会社・ヒルマイナ社と大手暴力団・関西慈悲心会ならびに下部組織である躁天会の手によって売春島に改造させられ、経済が潤い、財政難の危機を脱した。こうした関係は、原発を媒介とした中央と地方のそれと相似形をなす。『

          言いたいことはよくわかった

          侯孝賢と私の台湾ニューシネマ

           平田オリザのロボット演劇は当然ながらにその新奇性に注目が集まり、夕方六時のニュースで取り上げられるまでに至った。どこのチャンネルだったかは忘れたが、VTRを受けての男性アナウンサーのコメントだけは今もはっきりとおぼえている。 「いつかロボットが感情を持つ日が来るかもしれませんね」  残念ながらそういうことではない。セリフをインプットされたロボットたちが、顔の表情や声の抑揚に頼らず(頼れず)、ただ段取りを忠実にこなすことで観客の心を打つ。その点に独創性があるのであって、ロボッ

          侯孝賢と私の台湾ニューシネマ

          スウィンギン・キャラバン

           『男はつらいよ お帰り寅さん』は移人称の映画である。物語のラスト、主人公の満男(吉岡秀隆)が書いた小説を媒介にして、一気に彼のなかでフラッシュバックする記憶は、劇中には登場しない寅さんとマドンナたちだけのもので、話法としてはかなりアヴァンギャルドなのだが、観客のシリーズへの長年の想いがのりしろとなって全く違和感を与えない。高圧縮の『ザッツ・エンタテインメント』は山田洋次なりのサーヴィスで、かつ歴史の総ざらいでもあった。  そして、デイミアン・チャゼルの『バビロン』もまた同

          スウィンギン・キャラバン

          TOCKA〔タスカー〕

           王手またはチェックメイトを意味する「詰み」は、いささか響きが古風な割にはネットスラングに定着して久しく、「今月の電気代高すぎて詰んだ」「新学期3日目で便所飯とか詰んでる」というように、世代を問わずカジュアルに濫用されている。しかし、本当に詰んだ大人はそのことを口にする余裕も暇もなく、冷や汗をかきかきしながら何とか事態を収束させるべく走り回るしかない。金銭的に、社会的に詰んでしまうことの怖さ、惨めさは便所飯の比ではない。それでも運良く一段落つければ笑い話にもなるだろう。たとえ

          TOCKA〔タスカー〕

          ボクの流儀

           昨年春にネットプリントでリリースされた「溺死ジャーナル711-023」で、松本亀吉は雨宮まみとの思い出について書いている。その文中には吉田豪の名前も登場し、『帰ってきた 聞き出す力』のラストに収められた彼女への追悼文はこう評されている。 〈雨宮さんのスタンスを鋭く分析しつつ、温かく優しく正直で、追悼文のアンソロジーがあれば巻頭に収録されるべき名文だった〉  先述の亀吉さんのエッセイがまさにそうしたものでもあって、二人の目を通した雨宮さんの像はより陰影を濃くしている。  たと

          ボクの流儀

          祈りにも似た何か

           天才鬼才もその昔は赤ちゃんである。よちよち歩きを記録したフィルムは、のちに名を為しでもしなければ埋もれてしまうのが当たり前であったのだが、YouTubeやTikTokの流行によって、まだ誰でもない私の表現を世界に向けて投げかけることが可能になった。「やってみた」というテンプレのエクスキューズに自己顕示欲を指摘してもしょうがない。慎ましさを装った狭量な価値観がこの十年でひとまず無効化されたことはプラスだと思う。何もかもをすっとばしてまずは手を動かす奴が見ることの出来る新しい景

          祈りにも似た何か

          バタフライ・アフェクツ

           のんがインスタグラムにアップする写真には岡村靖幸や満島ひかり、吉岡里帆、森川葵がよく「いいね」を押していて、そうしたシンプルなエールのかたちは、無言であるだけにひと際の感情が込もってみえる。『あまちゃん』を地で行くかのような彼女のキャリアは、たとえば大友良英や渡辺えりのように直接的にバックアップする者など様々で、ファンとしてはただただ心強く、うれしい。  『さかなのこ』の主人公であるミー坊もまたのんに似て、幾重にも連なる回り道をたどりながらも、どこか浮き世離れした雰囲気を

          バタフライ・アフェクツ

          子供は判ってくれな(くてもい)い

           奇書とひと口にいっても『ドグラ・マグラ』や『家畜人ヤプー』のようなメジャーどころから、目録マニア垂涎の希少本など様々で、毎週末に全国各地で行われる古本市には朝も早くから書痴が詰めかける。私にとっての奇書はそんな彼らからすれば間違いなく興味の対象外だろうし、悲しいかな、出版社が想定した読者層にとっても同じだろう。そのタイトルは『感動する仕事!泣ける仕事!』といい、学研から出た児童向けの学習参考書である。  映画ならびに小説やマンガなど、フィクションが子供に与える影響は大きく

          子供は判ってくれな(くてもい)い

          A STORY

           松尾スズキが『宗教が往く』を書くにあたり、小説というフィクションの約束事を利用するために整えたアリバイは、自意識過剰の産物と言えばそうで、しかしその長いプロローグは含羞のほどをよくあらわすものだ。何様意識に敏感な彼はナンシー関と同い年である。私小説のマナーに則って描かれる初婚の妻とのライフスタイルは、まあヤクザ的であり、当の本人らも一般人に対して少なからずの優越感を覚えていることが見てとれる。そんな彼らが封建的な日本を象徴する田舎の良識をうっちゃろうとして口に含んだアシッド

          黒い鏡

          〈笑いは難しいが、いわばヒットエンドランのようなもので、うまくいけば好機に転じる(撃ち合いもね)。賭けである。最近誰かが「批評は賭けだ」などと偉大なことを言ったが、笑いもまた賭けだ。この賭け抜きでは作品は魅力的になってくれない〉(青山真治『宝ヶ池の沈まぬ亀』より)  「ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー」で若木康輔のパートナーを務める大澤一生が開演の挨拶を済ませ、本日の主役を呼び込むと、カットが変わり、会場入口のドアを映し出す(生配信で見た)。今回のキャッチコピーは「ワ