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大東京万博

 PORINがPORINとして、押井守が押井守としての日常を生きる『花束みたいな恋をした』の東京で、雨宮まみはちがう名前と性格を与えられていた。それでも彼女がモデルであるとはっきりわかるライターの死は、有村架純が演じる絹に衝撃を与える。菅田将暉が演じる麦との付き合い始めに訪れた江ノ島の砂浜を茫然と歩く絹のモノローグが伝える喪失感は、雨宮さんの愛読者が2016年に味わったものだ。

 寄る辺ない都市生活において、キラキラと輝くものへの憧れを抱く権利と尊さについて雨宮さんは書いた。何度でも知らない自分を見てみたい。化粧品や洋服、家具のどれかひとつを変えてみるだけで開ける新しい世界。理不尽なこの世で魂を綺麗にしておくための作法を、私たちは雨宮さんから学んだ。
 坂元裕二は松本亀吉のブログを読んだろうか?亀吉さんの追悼記事には、雨宮さんとの江ノ島旅行の思い出が写真とともに綴られており、同行したもうひとりの友人と三人で生しらす丼を食べたそうだ。

 いつの間にか砂浜に一人残された絹の不安と、二人分のしらす丼を手にひょっこりと姿をあらわす麦の笑顔の無邪気さは対照的で、このシーンを見る限り、雨宮さんの、ではなくライターの死のそれぞれの受け止め方には随分と差がある。と言うか、麦は彼女の文章を読んですらいないのではと思える。スマホでイヤホンを分け合って音楽を聴き、好きなマンガのことなら終電がなくなるまで語れる二人なのに、大好きな人の死を絹はひとりで悼むしかなかった。
 同じものが好きで、同じ景色のなかで好き合っていても、あなたはわたしではない。いつしか二人は、同じものを同じように愛せなくなるのだか、このときには知る由もない。

 ポップカルチャーについて語ることこそを自分の存在証明と信じて疑わなかった麦は、就職して世間に揉まれるうちに、絹との共通言語を少しずつ失ってゆく。仕事とプライベートは切り分けるべきという一般論を、麦なりに実践することにしたのだろう。労働の叩き売りだ。
 書店で絹が、お気に入りの作家の新作が載ったムック本(このチョイスも絶妙)を手に、ホクホク顔で麦のもとへ駆け寄ると、彼はビジネス本の表紙をぼんやり見つめている。感情までをも売り渡してしまった顔だ。平岡正明の『ジャズ宣言』は二人の本棚に並んでいるだろうか?夜電波リスナーとして、ありえなくはない。でも、もう遅い。ポップカルチャーが含むカロリーを消費するには疲れすぎてしまった。嶽本野ばらは、読書とは?という雑誌のアンケートに、受動性と能動性が両立する行為。と答えた。もうダルいんでゲームでいいっす。
 普通の生活という漠とした呪いは中々の強度を持っていて、予期不安を発症させる。治療薬はお金のほぼ一択と目されていて、地方出身者の経済観念はシビアにならざるをえない。大学進学を機に上京し、人が変わってしまうということはよくある話だ。
 麦とちがって、絹は東京の実家暮らしで、しかも両親は広告代理店勤めだ。そろって50代後半だろうが、来たる東京オリンピックのプロジェクトにはがっつり噛んでいて現役感がある。
 もし絹がイラストレーターの卵だったとしたら、まだまだ粘れたはずだ。カットの単価の値下げが生活に痛手を与えることもなく、いざとなれば、両親に頭を下げたくはないが、何かしらのコネを使って、という選択肢も頭の片隅には残しておける。
 家族仲は、麦を交えての自宅ディナーのシーンからして、あまり良くはなさそうだが、両親が発散する、いわゆるギョーカイ的空気を吸って育ったのだから、絹が「遊びを仕事に」と考えてイベント会社に転職するのは、ごく自然の成り行きだ。

 ポップカルチャーをお金に換えることの難しさは、愛好者で実作者でもあった麦がよくわかっているから「絹ちゃんは子供だよ!」となじる。普通、男子とくらべて女子のほうがリアリストである、ということになっているが、ここでは逆に見える。ただし、それはガワだけで、世の中なんてこんなものと、麦が自分で世界を狭めているだけだ。

 『グミ・チョコレート・パイン』や『(500)日のサマー』など、ポップカルチャーが恋愛の触媒として機能する映画は、古今東西で数え切れないほどに撮られている。しかし、固有名詞命のボクが普通の生活に敗れる様を、ここまではっきりと描いた脚本は稀だろう。
 映画館からの帰り道、『モテキ』を観たときのように、わたしだけのサントラを脳内で勝手に編集した人とは友達になりたい。
〈あなたは面白く輝いていて どこまでをも強く羽ばたいてゆけ〉
 Tempalayが「大東京万博」で歌うような、そんなあなただけを、絹は見ていたかったのだ。

 二人は別れて、それでも物語は、人生は続いて行く。ポップソングよりもささやかな、いくつもの取るに足らない喜びに生かされていると麦が気付くまで、そう時間はかからないだろう。
 コンビニを出るなり、アイスの袋を破り、いつもそうしているかのようにして家路につくOLの姿に雨宮さんが見出だした、「いまを生きる」という確かな実感。
 それを描いたブログを久々に読み返そうと、「弟よ!」のページに飛び、「OL アイス」で検索をかけたら、まるで、雨宮さんから麦君に送られた、十年の時を越える手紙のようだった。

〈みんな、不況になったら世の中つまんなくなると誤解してないか? 不況になったら小説つまんなくなるんか。本読めなくなるんか。服着れなくなるんか。「食べていけなくなる」不安はエロの世界じゃなくても誰にだってある。そういうときに寄り添うものが芸術とかなんじゃないのか。そういう不安をなぐさめるのが女で、男で、ポルノなんじゃないか。
 寒いのに帰り道アイスチョコバーをコンビニで買ってべりべり開けて歩きながら食べてるOLさんがいた。終電間際に、違う方向に帰る男女が手話で話していた。不安に駆られて今日を生きることを忘れてどうする? 歩きながらアイス食う自由ぐらいまだいくらだってあるじゃんか。気分いいよ。
 私は毎晩、桑田佳祐を聴いて不安を叩きのめす。桑田佳祐ぐらい金持ちだったら何の不安もないんじゃないかなんて貧しいこと言う奴は想像力のないカスだと思う。不安でも歌うからカッコいいんじゃないか。そして、不安でも歌うのがプロだろう。音楽でも、出版でも、ふつうの会社でも〉


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