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デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション

 吉田戦車の『伝染るんです。』にこんなネタがある。子供がスーパーに卵を買いに行くと、〈観賞用のならあるよ〉と店員に言われ、素直にそれをひとパック買うことにする。

〈食べたら死ぬよ〉

 というその卵は明らかに腐っており、茶の間のテレビの上に飾られる。カビの生えた畳や土壁の汚れも相まって、部屋の陰気な空気をより濃くしているが、ボロをまとった子供の両親の表情は明るい。

〈部屋の中に卵が飾ってあるだけで、心が豊かになるな〉

 親からほめられた子供はうれしそうに笑い、ジ・エンド。その気になりさえすればいつだって全てを無に返すことのできる装置がおつかいで手に入れられてしまう。「死」という絶対的かつ漠としたイメージが不意に日常との距離を詰めてきたときに得られる安らぎは、のちに『リバーズ・エッジ』(岡崎京子)によって広く共有されてゆく。そして、あの河原の白骨死体は平等という概念の結晶でもあった。

〈世の中みんな キレイぶって ステキぶって 楽しぶってるけど ざけんじゃねえよって/ざけんじゃねえよ いいかげんにしろ/あたしにも無いけど あんたらにも逃げ道ないぞ ザマアミロって〉

 『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(監督:黒川智之 原作:浅野いにお)もまた「平等」を具現化した映画で、東京の上空に静かに浮かぶだけの円盤は、いわば巨大な死神の鎌である。腐った卵を横目に夕食をとる貧乏な家族と、都民との違いは、死刑執行のボタンが自らの手の内にあるか否かでしかない。しかしながら、ある日突然飛来したそれは、特に侵略の姿勢をみせるでもないため、ほどなくして日常に溶け込み、少なくとも主人公であるおんたん(あの)と門出(幾田りら)の高校生活に何ら影響を及ぼすことはない。死から逆算した毎日こそが生であるという哲学はおよそリアリティを欠く。あした地球がこなごなになるとして、誰も「月曜から夜ふかし」を見ながらペヤングを食べたりはしないだろうが、私たちの生活はそのような些事の積み重ねで成り立ってもいる。近い将来に起こるとされている南海トラフ地震の脅威を見えなくするものは、あらゆる仕事とあらゆる日常におけるルーティンの束なのだ。コロナが5類に以降して久しい現在に本作が公開されることは時宜を得ているが、そもそもの話として、パンデミックや自然災害、戦争といった一大事と全く関り合いのない人生というものはありえない。『鬼滅の刃』のエピローグは、おそらくはコロナに感染して亡くなった人々とその遺族との絆を強く繋ぎとめておこうとする吾峠呼世晴のやさしさによって描かれたもので、作者自身による二次創作というレアな魅力もたたえているが、イレギュラーかつ応急措置的なそれは、遥か100年先の、遠い国に住む読者の胸をも強く打つことだろう。唐突に開始される鬼舞辻無惨と鬼殺隊との血みどろのバトルは、少年マンガの華であるタイマン勝負という形式をかなぐり捨てて、ほとんど戦争そのものだ。はたして人間はひたすらに無慈悲な現実とどう向きあうべきなのか?そのやるせなさを輪廻天生によって昇華させたのが鬼滅であり、平行世界に希望を託してみせたのが本作である。

 劇中では、侵略者排斥の気運が次第に高まってゆき、都内にはきな臭い空気が立ち込め、心優しい門出はいっときの不安と正義感に駆られることで、トラヴィスさながらのヴィジランテを演じる羽目に陥ってしまう。一度抜かれた刃は次々とその標的を見定め、傍目には義務的にすら映る。外部からインストールしただけの、大文字の正義の滞留時間はたかが知れており、ほどなくして門出は罪悪感に苛まれ、自ら命を絶とうとするのだが、そんな世界におんたんはやり直しを求め、タイムマシーンに乗り込む。彼女が親友の門出を想う強い気持ちは、たとえるならば東日本大震災の翌年に「くちびる」をリリースしたaikoのようで、

〈あなたのいない世界にはあたしもいない〉

 というフレーズはほとんど映画のキャッチコピーとして代用が可能だ。しかしながら、aikoの詞世界は、とうに涙も枯れ果てたあとにもたらされる諦念と背中合わせで、なかば脅迫的に「不在」の重みを突きつけてくるが、おんたんは「不在」それ自体を絶対に認めようとはしない。一見して、両者は世界認識を同じくしているようでいながらも、おんたんにとっての門出、つまり〈あなた〉は、「この世界が世界であるための絶対条件」であり、私の存在意義を保証するものではないのだ。本作がいわゆるセカイ系とも異なるゆえんである。『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ)において、アイリスに象徴されるイノセンスは、孤独な不眠症の男の妄想の産物であったが、おんたんが門出に見出だしたものは「希望」で、その意味ではトラヴィスにも通じる。世界の終わりも君となら迎えられるということなのだろう。
 そのような夫婦を松田龍平と長澤まさみが演じた『散歩する侵略者』(黒沢清)では、クライマックスにおいて、長谷川博己演じるジャーナリストのからだに乗り移った侵略者が、ジェット機による猛爆撃を一身に受け止めて、からだをバラバラにされてしまう。地球人の排外的なヘイトの念はその強度を保ったまま、ベクトルの向きを変えて世界を破滅させようとする。そうした力学は『殺し屋1』(山本英夫)の垣原のパーソナリティに顕著で、愛という憎悪の特性をよくあらわしていたが、おんたんと門出がかくまう侵略者の少年に向けられる彼女たちのまっすぐな愛情は、むしろ親切と呼ぶにふさわしく、恐怖でこわばった少年の心をゆっくりとときほぐしてゆく。心ならずも宇宙から東京に降り立った彼ら彼女らはほとんど難民のようで、国防軍や一部の人間からは狩られる側にいた。仲間たちを無惨に殺された一人の少年が地球の危機に立ち向かう姿には清潔な無私の魂が透けて見え、「愛は負けるが、親切は勝つ」というカート・ヴォネガットの信念を裏付ける。無作為にスイッチングする平行世界における地獄めぐりを描いた『スローターハウス5』と本作は好対照をなしていながらも、ヴォネガットの本懐を代わりに遂げているのであった。

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