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福田村事件

 マーティン・スコセッシの『沈黙』と『戦場のメリークリスマス』の両作品において、精神の自由に殉じる者へと手向けられる歌は、実存を支えるためのよすがであった。それを持たない者には自らの足元を揺るがされる恐怖の言語でしかなく、耳に入れることすら不快であるだろう。温室から響いてくる讃美歌が瀕死のセリアズの元にだけ届いてみえるのは、日本兵らにとって、その真に意味するところが理解の範疇外にあるからだ。春歌を口ずさむ荒木一郎のノンシャランな態度から十数年の時を経て、ここでははっきりと「うたは自由をめざす」のである。デヴィッド・ボウイの一挙手一投足が勘に触って仕方がない坂本龍一とビートたけしは正しくアーティストで、サリエリであり、彼らをキャスティングした大島渚の慧眼には感服するばかりだ。「持つ者と持たざる者」という図式に「許されざる恋」というファクターを埋め込んだならば、そのロマンチシズムは極点を記録するだろう。こうした葛藤とは無縁のマチズモを体現した三上寛の名演が不思議なくらいに評価されないのは、まさにその一面性によるのだろうが、大島渚がヨノイ大尉に託した男性性と通底する面も大きく、この作家が常に複数の声を欲していることがわかる。男色を処罰の対象としながらも、フィルターに菊の紋章が入った煙草は対男性へのねじれた支配欲のあらわれで、ハラ軍曹が見る淫夢のなかでは、あのディートリッヒすらも高嶺の花ではない。大戦下における日本軍が体現する帝国主義のカリカチュアライズとは対照的に、イノセントな何者かが不可抗力的に汚されてしまうさまは、当たり屋の少年を思い出してみてもわかるとおり、大島渚が自分の弱い部分をあえて見せつけたうえで、わざわざ踏みつけにしているかのようだ。いつかDOMMUNEで樋口尚文が話していたとおり、大島渚は被害者性に居直る態度を断固として批判した。多義性と論理性とを重んじるのであれば当然の態度で、たとえば『日本の夜と霧』における津川雅彦はまるで「ガストロンジャー」を歌う宮本浩次のようであったが、常に一歩引いたポジションを守る佐藤慶と戸浦六宏もまた大島渚の分身に他ならず、批評的第三者の視点を確保している。彼らからすれば共産党指導部の方針転換に無批判な野沢(渡辺文雄)は風見鶏でしかなく、主体性を欠いたそのさまは、先の大戦において提灯行列に並んだ日本人の姿にも重なる。武田泰淳はあの結婚式場に集まった面々を「狂人の群れ」と評し、到底感情移入し得ないと切って捨てたが、はたして正確だろうか。大島渚の批評文と同様に、その脚本は堅牢なロジックと熱量の両輪が拮抗していて、かつ一定の冷静さを保ってもいる。リベラリストの同族嫌悪が批評眼を曇らせるという事例は、SNS時代を生きる私たちにとっておなじみだろう。
 そして『KT』の脚本を手がけた荒井晴彦もまた複眼的な視点をとっており、金大中の誘拐事件を題材にしながらも、私性が強い点がユニークだ。佐藤浩市が演じる富田満州男は憲法九条の矛盾に引き裂かれる自衛官で、三島由紀夫の檄をストレートに受け止めた数少ない一人であり、別班の開設を命じられたことをきっかけにKCIAと共犯関係を結び、KT暗殺計画に足を踏み入れてゆく。陸軍士官学校において、朴正煕と富田三佐の上官である塚田昭一とは先輩後輩の仲であったのだ。富田が所長を務める興信所はあくまでトカゲのしっぽでしかなく、KCIA側の指揮をとる金車雲も同様である。こうした関係性は広能昌三と武田明のそれにも似て、貧乏くじを引かされる富田の悲哀が浮かび上がってくるのだが、その彼に相対するタブロイド紙の記者・神川昭和を演じる原田芳雄は、三島の自決によってたがが外れた富田の苛立ちをいなしてみせる。

「「自衛官は違憲だ。軍隊なのに軍隊じゃない」おかしいじゃないですか?」
「矛盾は第九条だけか?違うだろ?」
「俺たちの矛盾は貴様らの矛盾だろ!」
「神だろうが人間だろうが象徴だろうが、いらないんだよ、そんなものは」
「戦友がいたはずのあなたが靖国を前に同じことが言えるんですか?」

 神川の上官は沖縄戦の特攻で命を落としている。彼がギターとともに遺した手帖には「湯島の白梅」や「伊那の勘太郎」、「誰か故郷を想わざる」など、歌謡曲の歌詞がしたためてあった。

「人間なんて所詮上から物入れて下から出すだけのものなんだけども。それでもやっぱり生きてたほうがいいよ。俺は今のまんまで万々歳だな」
「なんでもいいから千鳥ヶ淵に敬礼させろと言ってるわけじゃないんだよ、こんな日本が嫌いなんですよ」

 かつて荒井氏は『亡国のイージス』を年間ワーストに選び、勝地涼が演じた自衛官をイラクへの専制攻撃を容認したジョージ・ブッシュになぞらえてみせた。そのことからも政治的スタンスははっきりしており、神川の人生哲学は『ヴァイブレータ』や『やわらかい生活』、『さよなら歌舞伎町』といった作品の中にもかたちを変えて息づいている。『この世界の片隅に』を評するにあたり、庶民の戦争責任を描いていないものとして批判した荒井氏も、すず(のん)と同じように平穏な日常を望んでいるに違いないのだが、その背後にある天皇制や自衛隊という負の遺産が孕む暴力性からは決して目を逸らさない。

「しかしあんた、なんでKCIAの手伝いなんかするんだい?ええ?」
「これは俺の戦争なんだよ!軍人が戦って何が悪いんだ?ただ生きてるだけじゃ犬や猫と同じじゃないか。「狼は生きろ、豚は死ね」だ」
「天皇陛下万歳で死に損なって、共産党万歳で死に損なって。俺はもう美しい言葉は信じない。何かのためにも生きないし、死なないし。「豚は生きろ、狼は死ね」」

 軍事政権を敷く朴正煕の政敵の金大中は「韓国のケネディ」の異名を取り、アメリカ、日本で南北統一の理想を唱え、その談話をまとめた神川は新聞の一面に掲載した。加えて、荒井氏の帝国主義に対する批判は、KCIA職員の口を借りて激しさを増し、富田は板挟みの状態に陥る。「日帝三十六年の恨」をぶつけられた彼は、吉田茂が言うところの〈日陰の花〉であって、望まずして角を矯められた軍人なのだ。
 それとは対照的に『福田村事件』で水道橋博士が演じた在郷軍人の長谷川には、富田のような屈折は見受けられず、しかしながら、内に溜め込んだ憤懣のほどは言動の端々にはっきりと滲んでいる。無謬性を疑いもしないそのさまは『聖地には蜘蛛が巣を張る』でメフディ・バジャスタニが演じた娼婦連続殺人の犯人と同じく、マチズモが内面化してしまっている証拠だ。事件の真相を追う記者をザーラ・アミール・エブラヒミが演じたこの映画は、カンヌ国際映画祭での主演女優賞をはじめ、世界各国で賞賛を集めた。脚本も兼任した監督のアリ・アッバシは、記者と殺人者のパートをパラレルに構成しており、いわゆる「凡庸な悪」を描くにあたって、普通の男の普通の生活を観客に提示することは唯一無二の条件であったろう。純潔志向と裏腹の女性蔑視が自明のイスラム社会を生きるマッチョ男性にとって、娼婦殺しにはさしたる理由も伴わず、日常で占めるウェイトは家族サービスで行くピクニックと大差がない。『福田村事件』の脚本チームである佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦が群像劇を採用し、平凡な村人たちの日常をつぶさに描くことで浮き彫りにしたものは、のちにルドルフ・アイヒマンが体現することになり、その非自律的な残酷性については、本作の監督である森達也が『A』シリーズや『死刑』といった著作を通じて警鐘を鳴らし続けてきた。大島渚の『絞死刑』はその嚆矢で、朝鮮人に対する排他的感情は、同時に「まれびと」に向けられもする。永山瑛太が演じる薬売りの一団の長は、被差別部落の出であることから、一般的市民感情に対して複雑な思いを抱いており、阿漕な商売を半ば開き直って行うのだが、病人の不安に付け込んで、なけなしの金をむしるさまは、弱者が弱者を食い物にしているようで、痛々しい。こうした被害者性が加害者性へと転じる例は、先述した『KT』にも顕著だろう。金大中を誘拐するにあたり、日韓の外交関係の悪化を恐れるKCIA職員らに対して、金一等書記官は、日本公使による明成皇后暗殺事件を引き合いに出し、喝を入れる。皇后の遺体を凌辱し、火を放つまでしたというその残虐性は、福田村の在郷軍人会の酒席においては武勇伝に取って代わり、毎度ながらの顔ぶれが気持ち良く反芻を繰り返すことで、限りなく内向きの結束力を高めてきた。柄本明が演じた馬喰は、かつては大陸に出兵した元兵士で、何人もの朝鮮人を銃剣で刺し殺したというその体験談は、格好の酒の肴となり、長きにわたって村民の排他性を固定化する要因となってしまったのだった。細馬宏通は岸野雄一との対談でこう話している。

〈「誰かと聴いてる」ってイマジネーションって、結構重要かもしれない。(中略)実はコンサートとかライブっていうのは、誰かと聞くんですよね。他の誰かが居て「わー」っと言ったり、誰かが前のめりになったりということを気配としてひしひしと感じる。実はそういうのを聴いたり感じたりしてるんですよね。歌は、聞いている人の何かを立ち上げる。すると、その人は何か行動なり表情なりの変化をしますよね。で、歌を聴いている隣の人の行動や表情が変化すると、それがまたこちらにも伝わってくる〉(「nu vol.2」より)

 細馬氏が言うところの「歌」を血生臭い武勇伝に置き換えてみれば、在郷軍人会におけるナショナリズムがいかにして純粋培養されていったのかがよくわかるだろう。「隣の人」は私の興奮をアンプリファイする存在でもあって、そのうえアルコールまで入っているのだから、自制などしようもない。セリアズと温室に収容された捕虜たちが歌を介して横の関係でつながっているのとは対照的に、福田村においては、床の間を中心とした縦の関係が幅を利かせている。そうした土着性に根差した女性蔑視は村の女性たちにも知らずのうちに内面化しており、それぞれの主体性は長い年月をかけて剥奪されてしまっている。田中麗奈が演じる静子が白眼視されるのは、いかにも社長令嬢然とした美貌やドレスを羨まれてのことだけではなく、その蓄積の度合いがうかがえるファッションのセンスが自由を体現していたからではないか。一生を村で生きてゆく他のない者たちにとって、否が応でも外部を意識せざるを得ない静子のルックスは、彼女の夫である智一と共に、結果として村に異物感をもたらすことになった。井浦新が演じる智一は、朝鮮で日本語を教えていた元教師のリベラリストであり、民主主義の理念を胸に抱えているのだが、長谷川からは「アカ」のひとことで片付けられてしまう。立身出世を旨とする軍人にとっての大正デモクラシーは、共産主義と同じく、縦のラインをかき乱すノイズでしかない。『KT』のクライマックスにおいて、スパイを射殺する金車雲の怒りに満ちた表情には、はっきりと拒絶の意思があらわれていた。長谷川や金からすれば、ロシアの国家思想に夢を見られる智一のような男は、はなはだ非生産的な象牙の塔の住人である。実利主義と民主主義とは相性が悪く、現在の大阪に目を向けてみれば明らかだ。それから百年もの昔、添田唖蝉坊はこのように歌っている。

〈ああわからないわからない 生存競争わからない デモクラシーを唱えては いくさするのがわからない こんなおかしいことはない こんな馬鹿げたことはない〉

 陸奥新報で連載されていた中川敬のコラム「うたのありか」によれば、1908年作の「ああわからない」の旋律は〈社会主義革命歌〈富の鎖〉や朝鮮抗日革命歌〈反日戦歌〉、児童戦時歌謡〈僕は軍人大好きよ〉等と同じく、小山作之助作曲による有名な軍歌〈日本海軍(四面海もて囲まれし)〉を拝借〉しているのだそうで、アンビヴァレンスな性格を持っていることがわかる。『大島渚の世界』のなかで、佐藤忠男は『日本春歌考』における春歌を、形骸化した戦後民主主義運動の否定であると捉えているが、その意味では、添田唖蝉坊の演歌にも通じるだろう。水平社宣言が出されたのは、関東大震災の前年のことであった。

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