見出し画像

「所属」から離れて、心身に問う

ウイルスが全世界に猛威をふるい、混沌とした状況の中で、せめて1日に少しの時間でも、世界中の人達が心の安らぎを得られることを切に願う。

私はデンマークのフォルケホイスコーレで、Trancendental Meditation(超越瞑想。以下TM)というものを学んだ。ヒンズー教に由来するこのマントラ瞑想法はマハリシ・マヘーシュ・ヨーギー氏によって1950年代に知られるようになり、ニューエイジ思想の時流に乗りアメリカから全世界に拡大していった。現在でもハリウッドスターや著名人逹に人気のようだ。

ストレス軽減や脳の活性化など幅広い効果が見込まれるが、他の瞑想経験者いわく、「TM瞑想は楽」なのだそうだ。とにかく「集中」や努力が要らない。個々に適した「マントラ」と呼ばれる短い意味のない単語を心の中で唱え、目をつぶること20分。瞑想中の思考も雑念もそのままにし、心身に起こる変化や思考の内容について分析もしない。

TMの専門講師からしか習えないので、そこは少々ハードルが高いが、昨今の禅やマインドフルネスブーム同様に見聞きする機会が増えるのかもしれない。

思い返せば、初めて英語で「Meditation」という言葉に触れたのは、20代前半で訪れたネパールだった。以前このNoteにも書いたが、カトマンズでホームステイをしたお宅の長男は、熱心に瞑想やヒーリングを学んでいた。

旅の途中、私は不調に見舞われたが、彼の「手当て」のおかげで翌日には回復していた。もちろん、睡眠や自己治癒力の効果もあるとは思うが、「人間のパワーとエネルギーって最強だ!」といたく感動した。

それから20年後、なぜかデンマークの片田舎で、私は瞑想を習うこととなる。

心と身体はつながっている

今までの人生で、これほど心身と対話したことがあっただろうか?

もともと精神など目に見えない次元の話に興味がないわけではなかった。でもどこか物事を合理的に捉える自分がいて、感覚よりも常に思考がはたらいてしまう。

周りでは、都心を離れて自然豊かな場所に移住したり、働き方を見直す人達が増えていた。彼らはエコやサステイナブルという概念を流行りではなく、自らの「意識」をベースに日常や人間関係を大切にしながら生きている。

私はというと、仕事場に貼り付いてもがいていた。人間には大事な直感が備わっているはずだが、相当な「違和感」を無視した毎日を繰り返していた。確実にストレスマネジメントは不合格である。

なぜか間違った方向に自分を追い込むようなことをしている。もちろんその過程に学びや成長はあるのだけれど、はたして「心身ともに」健全であったのかどうか?

6年前のがん宣告は青天の霹靂だった。今振り返るとステージ1とはいえ、2度の手術のダメージは大きかったと思う。あの頃は、言いようのない恐れや不安に支配されていた。

初めて「死」という言葉が脳裏をかすめた出来事で、自分の「命」にも当然限りがあるという事を認識する。

意外とどん底まで落ちるとバネが大きく跳ね返るようで(女性は強い!)医師から優等生患者のお墨付きをもらい、無事に最短で社会復帰を果たした。

再起後は自分に負荷をかけないと決めた。それなのにまたもや苦しい選択の連続。これは人生のスランプ期というものなのか?自分に何が起こっているのか。

心と体は連動していて、どちらも大切に扱わなければならないが、いつの間にか(いや、物心ついた時から)「抑圧」や「我慢」が癖になっている事に気付かされる。

若い頃から自立して好きなように生きてきたはずだが、どこか自分の人生というものを直視できていなかったのではないか?

よくも悪くも「いい子」の仮面と葛藤する本来の自分。40代手前でいよいよ後半の人生を迎えるにあたり、ふと立ち止まる。

何かのために誰かのために、奔走するのは好きだったけれど、どこかズレた自己犠牲のうえに成り立っていたのかもしれないと。

お金も安定した地位ももちろん大事。でもそれよりもっと根本的な生き方の問題。

出口の見えないジレンマの中にいた。会社なんて仕事なんて「こんなもんだ」と潔く割り切ることもできない。

どうやって抜け出そうか。どこへ向かえば自分の正解か?

何歳になっても思春期とか反抗期とかそんな「多感」な時期があるのだと思う。自分と向き合った時にそれは痛みとともに突然やってくる。

そうやって私は色んな感情を揺さぶられて強くなってきたのだし、これからもそうなのだろう。

答えはいつも、心と身体が知っている

自分の人生を生きるということは、直感や意思を大切に、結果はどうであれ半歩でも前に進む覚悟から始まるもの?

自問自答を繰り返し、自分の深い内側で起こっているアンバランスを探る。長年封じ込めてきた感情やエゴ、とりわけネガティブな感情と向き合うのはきつい作業だったけれど、少しずつ。

自分が選択したはずの、でも何だか自分自身ではない違和感を払拭するために。

私は離婚を決意した。そして2年後、退職を前に意識に上ってきたのはデンマークのフォルケホイスコーレ留学だった。

仕事柄、北欧の教育には以前から興味があった。「主体的」な学びというものをアップデートしたい。そしてライフワークを再定義すること、さらに自分の内側を問い直すこと。

とにかく「したいからしてみる」という純粋な気持ちに従ってみた。

何か決断をする時には、最終的に「心の声」が頼りになる。まっさらになった自分が何を優先するのか、そして何を欲するのか。

「後先考えていない」と言われると否定できないが、人生自体、そもそも予定通りになんて進んではいないのだ。

振り返ってみると、実はすべて繋がっていて、強い「違和感」を自覚するために、必然的に数々の試練が目の前に現れたのかもしれない。

そして昨年、がん患者にとって最初の関門となる「術後5年」を無事に迎えた。私もそろそろ次のフェーズに移行する時が来たのだと思った。

画像1

すべてはよくなるために起こっている

歳を重ねるごとに「休業」すること自体、何だか罪悪感のような、社会から取り残されるような気がする人もいるかもしれない。例えば部署異動や引越し等の「変化」すら怖いという人もいる。

私は所属欲求やらをいったん手放して自由になってみようと思った。そうして見えてきた新しい風景に不安や恐れはなく、むしろ勝手に自分を縛っていたものから解放されて、内側に力が漲っているような感覚がある。

渦中の時には麻痺していて見えない心と身体の関係。何かを手放すと何かを得るというのは、本当に大事な法則のようだ。

個人の幸福を最大限優先するデンマーク。日本とは異なる社会システムや価値観の中に身を置いたことは、さらに自分を見つめる有意義な時間となっている。

真の「学び」とは何か。幸せな「暮らし」とは、「仕事」とは。

自分が自分らしくいることの豊かさや価値とは。

自分のモノサシや感性は鈍っていないか。

温かい空気で人と繋がり繋げているか。

人生で何が大事で何が不要か。

人生の後半を私はどうやって生きていくのか。

「心身の声に敏感になる」というのは、目まぐるしい消費社会の中で、私たちが忘れかけている大事な本能なのだと思う。

マハリシ氏は宇宙意識という概念や瞑想の話の中で、

「すべてはよくなる(よくする)ために起こる」

と言っている。シンプルだがとても力強い言葉だ。

自分の身に降りかかる不運も、地球規模の危機や災害も、予期せぬ出来事は突然起こり得る。けれども何かを動かすのは必ず人の「意識」から始まるものだから、自分を取り巻く人達や環境と向き合う最良の機会であるとも言える。

そう思うと自然や人や今ある環境が、当たり前ではないという感謝の気持ちでいっぱいになる。

すべての出来事や人との出会いに無駄などなくて、現実世界はいつも私たちの感性や意識を進化させるために起こっているのだと思う。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?