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高校生と演劇教育 第3回レポート テーマ「演劇の授業の目標―演劇の授業では何を学んでいるのか?」

高校生と演劇教育に関するイベント第3回を開催しました。
第1回から継続参加の方から、今回初めてご参加の演劇の授業を実際にされている方や高校の先生をされていた方、されている方など様々な背景を持つ演劇と教育に関心のある方々10名ほどが参加してくださいました。

このイベントは、私自身が長年携わってきた「高校の演劇の授業」について、多くの人と語り合いたい、というのが一番にあります。今回も短い時間の中でしたが深く語り合う場となりました。
12月まで全8回の内の今日は第3回で、テーマは「目標」でした。補足しておきますと、ここでいう目標とは学校側が設定する目標のことで、生徒自らが立てる目標ではありません。それはまた別の論点の時に語ることができればと思います。

さて、ということで第三回のテーマは「演劇の授業の目標―演劇の授業では何を学んでいるのか?」でした。が、テーマ設定の時は深く考えておりませんでしたが、実質的には今回のテーマはつまり「演劇の授業で何を学ばせようとしているのか?」ということなのだな、とイベント前夜に思いました。

このテーマを議論したいと思ったのはなぜか。
それはとても大事なことだと思ったからです。

今日もイベントの中で私自身の経験をお話しましたが、私が和光高校で演劇の授業を担当して数年がたったころ、専任の先生から「22年学習指導要領に合わせて学校全体のカリキュラム改訂を行っている。鎌田先生、「演劇科(学科ではなく学内区分のための科、英語科みたいな)」の総論、各論を書いてくれませんか」という依頼がありました。つまり、学習指導要領と和光高校全体の教育目標とを合わせて、演劇科として何を学ばせようとしているのか言葉にしてくれませんか?ということでした。

その時に、自分で「演劇の授業の目標」を言葉にしたことで、自分の授業で何を大切にするのかがはっきりしてきた経験があったのです。

ということで、今日のイベントも始まりました。今日もみなさまに一言ずつ自己紹介をしていただきました。大学教員でもあり高校生ともインプロをやっている方、大学の教員養成課程で教えている方、高校の教員を引退後、道徳教育を専門にして大学で教えている方、各地の高校で演劇の授業を実際に担当している方、現役高校教員で演劇部の顧問の方、劇作家であり高校で演劇の授業も担当している方などなど、今日も演劇と教育になんらかの興味や関心をお持ち、あるいは現にそのフィールドで活動される方々でした。

今日も資料を元に始めました。今日の資料は日本の演劇科や演劇専攻、舞台芸術科のある高校5校の目標を例示したものです。


今日の資料1

設置年の古い学校から比較的新しく設置された高校、また公立私立の学校が混ざるように5校を選択しました。ただし各学校HPを確認したのは昨日(6/30)なので「目標」の文言は最新のものを引用しました(最後の和光高校はHPにはでていないものです)。私は2018年に一度調べているので、今回その目標が変化しているところ、していないところというのがわかりました。宝塚北は変化していました。東筑紫学園は変化していませんでした。他は文言の修正、統一、及び追加がなされている印象でした(ちなみに和光高校は以前のものからの修正を2020年に行いました)。

黄色のマーカー部分が、目標の中でも「こういう力、こういう人になってほしい、こういう人を育成したい」という部分です。これらを示した上で、以下の問いかけをしました。


本日の資料2

私は自分の経験からもこの「目標」の大切さを実感しています。そしてそれ自体、実は固定したものでもない、ということがこの数年の各学校の変化から読み取れます。それゆえ、どんな言葉で目標を語るか、について参加者のみなさんと考えたかったのです。

今日も、どしどしご意見が寄せられました。
継続参加の大学教員の方からのご意見です。

「これまで二つの目標
(1)「アートとして」
(2)「教育機能(人格の完成)として」
があったと読みました。
どっちを取るか、まとめるか、で目標の言葉は変わりそうですね。」

継続参加をしてくださっているので、このイベントの1回、2回の議論を引き継いでのご意見でした。そうなのです。1回、2回の中でもこの「アート(芸術)」としてなのか、「教育」としてなのか、どっちなんだ?あるいはどっちで語るんだ?という議論がありました。
今日は、そして、この「どっちを取るか、まとめるか」という言葉。そうなんですよね~と思いました。私としては「まとめたい」派です。

次は初参加の大学教員の方からのご意見。

「「〇〇力」という(個人的な)能力概念を用いることがよいかどうか、というところを疑問に思いました。
個人の身に付けるべき能力として、学びの結果をとらえるほうがよいのでしょうか」

お話を伺うと、「○○力」としてしまうことで演劇でできることをミスリードしてしまうのではないか、演劇という場でどういう関わり合いをするかで変化するし、みんなで変化する、みんなで学んでいくということがあるのではないか、ということでした。

そうなのです。私自身も「○○力」という言葉を使っていますが、本来ならば、演劇という集団で行うものの場合、相互作用で変化していくうねりというようなものがあるように思います。
おそらく現段階で「○○力」という言い方をされる理由は、学校の評価システムが個人を評価するシステムだからではないかと私の意見をお伝えしました。

お次は現役高校教員で演劇部の顧問もされている先生からのご意見。

「1.文化の継承(通時的なもの)
2.創造性や情操などを培う(個性寄りのもの)
3.社会にとって「望ましい」「正しい」あり方を育てる(社会的なもの)
この3つが混在しているように見えました。
この3つは、結局学校教育に求められるもので、全部を完璧にやるのは「無理ゲー」なんですよね・・・」

今回の資料に見出された「目標」の文言から上記3つに整理してくださいました。そして、学校教育がこの3つを求められていることはわかっても、実際完璧にやるのは難しいですよね、というご意見。実感がこもっていらっしゃいますね。そしてお話を伺う中では、「望ましい」「正しい」あり方と言ってしまうことによって、こちら側の(学校や教員側)の正解や規範を押し付けてしまうことになるのでは、ということでした。ごもっともですね。

「望ましい」「正しい」ものを求める文言が入る目標は、近年は減ってきているように思います。しかし、そうはいっても、こちら側の思う「望ましさ」や「規範」は、伝わってしまうということもわかる、というようなお話にもなりました。同じ方はもう一つチャットに書いておりました。

「どこに重きを置くかが、目標の立て方によって随分変わるだろうなぁと」

そうなんですよ!と私も強調してしまいましたが、この「目標」を、どこに重きを置いて立てるか、ということで、実践の中身は全然違ったものになると私も思います。その意味で「目標」はやはりとても大切だと思います。
すると、議論が自然に「演劇ならではの目標」がいいよね、という方向に。

インスパイアされました!と、最初の発言の先生から、次のようなご意見が出されました。

「アートは社会的望ましさに対して自由であって多少イカれてるものだと思います。学校という社会的望ましさの中のカタマリの中にあって、安全で管理されたヤクザな部分が美術や演劇や文学、音楽だと思ってます。」

そうなんですよね!と、最高に盛り上がった瞬間という感じでしたが(笑)、学校って確かにそうですよね。「社会的望ましさの中のカタマリ」と表現してくださいましたが、生徒たちは「学校に行く」というのは、その「社会的望ましさが至る所で迫ってくる社会(学校)の中に行く」、といったものなのかもしれません。(今書いていて、自分の経験からしても、そうだったな、頭髪指導されたな、体育の教師に、と思い出しました)

そうした中にあって、アートは「多少イカれて」いたり「ヤクザな部分」というものを含んでいるものである。
それでいうと、演劇はそういった部分をたくさん含んでいると思いました。

チャットの方で「演劇」ならでは、の部分の議論が活発になりました。

「日常の規範からちょっと外れられる時空間だから面白いんですよね」

すると、実際に演劇の授業をされている方からのご発言がありました。

「演劇というイマジネーションの世界の中では、人を殺してもいい」ということを伝えられると思っているけれど、実際に授業をするときに、それを言うことを、教師側である自分がやめておこう、と自主規制してしまうところがある。それほど、望ましさや規範は根強い。それは生徒にとってもそうであるように思う、というご意見でした。

学校という「望ましさ」や規範の根の深さを実感しました。イマジネーションを扱う演劇のいいところのご指摘でもあり、その難しさのご指摘でもあり、大事な部分です。この問題は継続審議です。
現役の先生から、チャットで次のようなご意見も。

「話ずれるかもですが、身体や空間を使った集団創作のときは、「優劣」から解放される感じがある気がします。それももちろんファシリテーター次第なんでしょうけど、「評価」の枠から離れられるというか。」

たしかに、そうですね。こちらは詳しく議論(身体や空間、集団創作、ファシリテーター次第、など面白い論点が含まれていましたのでぜひ次回議論したい)まではできませんでしたが、「評価」の枠から離れられる、という部分に関して言えば、例えば第1回のテーマ「授業と部活の違い」のように、学校的評価の枠から離れられる部分というのが、部活動でできるのかもしれません(もちろん、授業の中でもできるとは思いますが、それもこれも「目標」と「評価」をどう設定するか、どう設定されているかに関わると思います)。

チャットでは、再び本日初参加の大学の先生からもご意見がありました。継続審議の問題と「創造性」の問題です。

「社会的望ましさから外れる、逸脱する部分については「独創的・創造的」という言葉で語られている部分なのかな、とは思いました。」

「ただ、高校生に対する演劇教育を語る言葉として「創造性」「独創性」といった概念が果たして、十分なのか、というのが今日の問いなのかな、と思いました。どこかで「創造性」といったときに「(望ましい方向での)創造性」みたいに読み替えられてしまうことがある。逸脱しまくってもいい!という部分をどう伝えられるか、ですね」

たしかに、「創造性」すら「(望ましい方向での)創造性」に読み替えられてしまうことがあるのでは、というご意見です。これは、教師側、生徒側の双方が陥ってしまいそうですね。そして「逸脱しまくってもいい!という部分をどう伝えられるか」が、学校で行う上で、難しいところでもあるのだと思いました。この部分は「インプロ」をやっている私としては「インプロ」が担える部分なのではないかなとお伝えしました(和光高校では「創造性」という言葉で表す部分でとても重視しているところです)。

時間が迫ってきていました。道徳教育をご専門にされている方からのご意見として次のようなものがありました。

「道徳教育で扱うときは、目標がハッキリしているのですが、SSTにするつもりはなく、小学校の段階ですらロゴス中心主義的な道徳授業が行われているなかで、身体を伴った自己形成を目指すためにも、演劇的手法は欠かせないと思っています。」

道徳教育という目標がはっきりしている中でも、それを練習、トレーニングというようなものにすることは違うのではないか、というご意見ですね。実際、言語、ロゴス(論理)中心であるところ、そうではなく、あるいはそれに加えて「身体」を伴うことの意味、「身体」を伴うことによって青年期の自己形成につながるのではないか、というご意見。とてもよくわかります。本イベント1,2回のこれまでの議論でも「身体」を用いることが演劇の特徴だ、ということがでました。また私の博論のテーマにも近いところがあります。こちらも継続審議事項だなと思いました。

他に今まさに演劇の授業を担当されている方からのご意見。

「頭で考えることと実際の身体のギャップを知り、頭と身体を両立できること演劇でやる意味のひとつはこれかな、と思います。」

上の議論とも関わる「演劇ならでは」の大事な部分ですね。頭と身体のずれ、を認識できること、それが両立していること、この不思議を、実感できるところが、演劇をやってみてわかることの醍醐味ですよね。

ここのあたりで、時間オーバーとなりましたが、議論で拾えなかったご意見がチャットをにぎわせておりました。
以下、チャットでのご意見を紹介します。

「さらにいえば「1. 文化の継承」については、わざわざ、演じる側に立つ必要があるのか、という点もありますよね。鑑賞者・見る側を育てればよい、というような考え方もありそうです」

たしかにたしかに。

「生徒側の忖度が、場のセッティングや、教育を語る言葉によって発生してしまっているのは、悲しいですね…」

「望ましさ」「規範」に関わる継続審議事項のことですね。

「「主体性」というマジックワードでも同じですよね。本当の意味で「主体的」なら、意味が無いと判断して教室から出て行っていいわけで……」

そうですね(>_<)

「他者からの影響を受けて自分が変化しうることを発見する という点も重視しているなと思いました」

相互に影響を与え合っているということを、知ることができる、という点ですね!なるほどなるほど。

こうしてチャットでのご意見に、参加者のみなさんが「いいね」をし合っていらっしゃいました。素敵です。

今日は、そんなところでお開きとなりました。
ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。


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