物事を伝えるには不誠実さを許容する姿勢も必要
ある分野で専門家になればなるほど、その分野の「分かりやすい話」をしづらくなる、ということがあります。その原因を端的にいうと、教科書的な説明が「そうとも言い切れない」ような場面を見かけていくにつれて、説明の歯切れが悪くなっていくからだと思います。
近年、メディアで注目を浴びている成田さんのインタビュー ↓ で触れられていた話について、私も色々と思うところがありました。
例えば、ある分野について分かりやすく組み立てられた、概論的な説明があるとします。「分かりやすい」かどうかはさておき、私が3年前ぐらいに書いた「自由意志」に関するnoteは、ありがたいことに非常に多くの方に見ていただいています。
当時、これらの分野は学部の授業をいくつか履修して学んだ程度に過ぎず、素人ながらになるべく間違った情報がないように丁寧にリサーチして書いたつもりですが、常日頃、一次情報の複雑さと格闘している専門の方々からすれば、節々に不誠実な説明が見あたることと思います。物理学であれば本来は数式を追って理解すべきところですし、哲学であれば長い歴史にわたる議論と概念をまず整理すべきかもしれません。
しかし、書く前にこうした「すべきこと」が頭に大量に浮かんでいると「神経症的ながんじがらめ」に陥ってしまいます。私が当時この記事を書けたのは、専門の方だったら気になってしまうような「細かいところ」を知らずにいたために、「向こう見ず」でいられたからだと思います。その後、私は神経科学の研究を院で行うことになりましたが、今だったら、少なくとも物理や哲学といった、自分にとって素人の領域に横断してまで書こうとは思えないのではないかと思います。
情報源の違い:一次情報と二次情報
では、なぜこのような違いが生じるのでしょうか?それは摂取している情報源の違いによるものです。
情報源として最も生に近いのは、「一次情報」と呼ばれるもので、これは本人が直接手を動かして得た情報です。研究室で行われる実験もそうですし、理論系であれば自分で数式をいじっていく過程で身につける感覚、といった言語化できない情報も含まれるでしょう。
一次情報は複雑混沌としています。そのままでは何の主張もありません。それを誰かが分析して、いらないところを切り取ったり大事なところを抽出したりといった「解釈」によって、何らかの仮説や主張に「翻訳」した上で第三者に伝達されるのが「二次情報」です。
論文は、専門家にとって主要な二次情報です。論文は「同じような、あるいは近い領域で研究を行っている人」というかなり狭いターゲットに特化して書かれています。
二次情報である論文を数百〜数千の単位で見ていくと、その業界におけるトレンドとか知見の蓄積といったマクロな体系がようやく見えてきて、再現性の高い仮説(=いくつもの実験室で同じ結果が再現できる現象、いくつもの現象を説明できる数式など)は、通説や教科書になっていきます。
教科書や通説は、読み手にとって整理がつきやすいように、あらかじめ体系化されています。こうして体系化された説明を情報源としている場合、第三者への説明も転用できる部分が多くて、分かりやすい説明がしやすいのです。例えば、先ほどの私の自由意志に関するnoteは、村山斉先生・大栗博司先生・池谷裕二先生などが、ブルーバックスという出版社の本で前提知識を持たない読者にも分かるようにと必死に頭を捻って書いたであろう記述が土台にあります。
最近では、二次情報である書籍や教科書をさらに図解して分かりやすく説明するといったスタイル(e.g. ファスト教養)もありますから、こうして3次・4次へと情報伝達のネットワークが広がっていくにつれて、主張も万人が理解できるようなシンプルなものになっていきます。
仮説とは近似のようなもの
私は、あらゆる主張はほとんど「近似」のようなものではないかと思っています。「人間とは〇〇である」とか、「Aさんは〇〇な人です」とか、そうした主張は、複雑混沌とした生の現象から、どんな事実を強調するのか/取ってくるのかという選択の問題だということです。
例えば、$${f(a)=b}$$という式を考えてみます。この数式が、例えば大体の$${a}$$について成り立つときに、それはほとんど$${f(a)=b}$$みたいなものですよ、と言ってしまうのが「主張」ではないでしょうか。例えば$${y=\sin x}$$って$${x}$$が$${0}$$に近いときには$${y=x}$$みたいなものです、といった形です。
しかし、実際の現実にはこの近似にあてはまらない「複雑さ」がさまざまなところにあるわけです。例えば、$${a}$$が大きいときには$${f(a)=b}$$は成り立ちません、みたいな事実を捨象している。しかし、そこまでをいきなり全部話してしまうと、「情報量が多すぎて難しい」ということになってしまうので、とりあえずは$${f(a)=b}$$と思っておいてください、それで大抵の場合は困りません、という方便で通すのです。その後、実際に$${f(a)}$$に親しんでいく中で、これまでの仮説が当てはまらない事例に遭遇したら知識を更新すればいい。あるいは、$${a}$$が小さい世界で暮らしている人は、別に$${f(a)=b}$$と思っておくままでも実用上、全く問題ないのです。
情報を縮約すればするほど(情報量を減らすほど)、解釈は簡単になって、より多くの人に共有できるという利点がある一方で、正確さを犠牲にしていくことになります。
数式に限らず喩えはなんでもよくて、Aさんという人がいて、本当はAさんは複雑な人なんだけど、「Aさんはアイドル好きです」とか、「Aさんはお酒好きです」といった単純なタグから入って人物像を把握しようとするのと同じです。しかしAさんと長く触れ合っている家族やパートナーからすれば、そうしたタグは不要であり、「Aさん」という人物の「丸ごと性 wholeness」とでも言ったらいいのでしょうか、複雑さを複雑なまま、留めておけるようになります。だから、仮説とは複雑性を高めていくプロセスのことでもあり、対象と慣れ親しみながら、単純な仮説を生の複雑さに近い方向へ塗り替えていくことを忘れないという姿勢が大事なのではないかと思います。
全てに対して「知的に誠実」でいることはできない
人間の時間は有限なので、全ての主張を細かく吟味するというのは無理で、ではどうしているかというと、「分業」している、ということなのだと思います。建築に詳しい人は建築に詳しいし、音楽に詳しい人は音楽に詳しいし、けん玉のことならけん玉プロに聞けばいい。
そこで頼りにされているのは、おそらく「信用のネットワーク」だと思います。「この人にだったら、判断を託せる」という感覚です。例えば、タイヤには詳しくないが、このタイヤ屋さんが売っているタイヤは使っていて快適だと「信頼できる友達」から聞いている、といった具合です。このように、自分を起点とした信用のネットワークから「仮説」が強化されていく感じではないかと思います。
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